vol.20(平成21年3月31日発行)
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かつての甲府城下の中心商業地・山田町、柳町、八日町の名は、今だ通りの愛称やビルの名前に残され親しまれている。コリド桜町に復活した芝居小屋『桜座』に通い始めて、初めて旧町名を知った若い世代もいれば、松林軒の跡に建てられたホテルを見上げて、繁華な人波を懐かしむ世代も少なくない。 甲州街道の要衝として発達してきた甲府。現在の姿は武田氏滅亡後の浅野氏が築いた城下町に始まる。江戸時代には、親子二代にわたる甲府藩・柳沢氏時代を経て、亨保九年(1724)からは、甲斐一円が天領化され、甲府は勤番支配の下に発展してきた。大商家や旅籠、問屋が軒を連ねた八日町、柳町を中心に、さらに周辺には職人町や芝居小屋など繁華な家並が集まり、戦後まで続いた市内の旧町名の多くが、もうその頃から見られた。当時の賑わいは幕末に出された『甲府買物独案内』からもうかがえる。 明治になり殖産興業の時代を迎えると、城の跡地を使って、県都として新しい街が姿を見せ始める。明治7年に始まった県営勧業製糸場、明治10年に落成した山梨県庁舎などのモダンな擬洋風建築が、新設された郡役所や村々の学校とともに、新しい時代の到来を印象づけた。明治22年(1889)には市町村制が公布され、人口3万余の甲府市が誕生。やがて明治36年(1903)には、待望の中央線が開通、甲府駅は政治経済の中心である東京への玄関口となった。明治39年(1906)には、日露戦争で延期となっていた一府九県連合共進会が城址公園で盛大に開催され、甲斐絹や水晶、印伝などの物産や昇仙峡などの景勝地も広く知られるようになった。 昭和になってからの町並みは、まだ人の記憶に残っているだろう。商家が連なった八日町、柳町だけではない、官庁や銀行が多かった錦町、東西を結んだ紅梅町、寄席や映画館、モダンな割烹が集った桜町、そして甲府銀座の賑わい、有信銀行があった三日町見附、その先に三日町、繊維問屋が多かった連雀町、移転前の賑わいが懐かしい魚町など、驚くほどの人波とそれぞれ特色ある町の趣を持っていた。『甲府夜曲』にも歌われた街の風景が、甲府空襲で一面に焼け野原になるまで続いていた。 中心商業地・柳町、 八日町、桜町、 そして甲府銀座 再開発進む オリオン通り・紅梅地区 昭和24年(1949)7月、終戦から4年目の夏、甲府市は市政60周年を迎えた。市内は空襲で焼け崩れた跡をとどめ、まだ復興の途上にあった。しかし甲府銀座の路上で開かれたファッションショーには人々が群がり、モデルにもそれを眺める市民の表情にも明るさが戻った。デパートや商店街にも人が集まり、初春の柳町大神宮の節分会、秋の銀座のえびす講祭りはもちろん、高度経済成長期を迎えると、桜通りにも、裏春日にもオリオン通りにも人々が溢れた。 オリオン通りが賑やかになったのは戦後のことである。市誕生の頃は、県令や裁判所長の官舎、甲府電力の社屋が威容を誇る官庁街だった。昭和32年(1957)には大小のホールを備えた山梨県民会館が完成、甲府の繁華街が次第にJR甲府駅までつながるにつれ、岡島百貨店西を南北に貫くオリオン通りはより繁華な通りとなった。通りの愛称は、今はなき映画館「オリオンパレス」に由来するといわれる。しゃれた名前が戦後まもない復興期の明るい気分を感じさせる。 紅梅地区には中心部で初めての大型スーパーができ、昭和50年代から、周辺に大手デパートの出店も続き、いち早くファションビルが建ち流行のブティックやショップが集積した。やがて時代は進展し、街は郊外へと急速に広がった。 現在、紅梅地区では大規模な再開発が進んでいる。周辺のいくつかのプロジェクトとも連携して、甲府市中心街活性化のひとつに位置付けられている。20階の高層ビルは地下一階から地上二階までが商業床、三階から六階が駐車場、七階、八階に県立宝石美術専門学校が入居予定、九階から上が住居ゾーンとなる。平成22年秋のオープンを目指し建設が進められ、まずは街再生の拠点になる。歴史ある街がどう発展していくのか、大きな期待が寄せられている。 記事監修:山梨大学教育人間科学部教授齋藤康彦 昭和24年7月、甲府市政60周年を記念して、甲府銀座で開かれた屋外ファッションショー。再開発が進む甲府市中心街こうふ かい もの ひとりあんない 23ふれあい
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