ふれあい特集号vol.42(デジタルブック版)
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19 伊藤うたは、1868(明治元)年、巨摩郡穴山村(現・韮崎市)に、守屋真清・よしの長女として生まれた。穴山尋常小学校を卒業後、神職である父の教えを受けて半年ほど過ごし、1880(明治13)年、甲府の山梨県女子師範学校へ入学し、寄宿舎生活を始めた。ハキハキとした話しぶりと明朗な性格で誰からも好かれたという。 1883(明治16)年、山梨県師範学校附属女子師範学校を卒業。その後2年間、山梨女学校の裁縫教員関口ふくの下で、指導を受けた。 1888(明治21)年、20歳になったうたは、同じ村の裕福な農家の長男 伊藤又六と結婚。二男二女に恵まれ、家事や育児に忙しくも幸せな日々を送っていた。 ところが、結婚9年目の夏、夫が急逝。田畑、家屋敷など、相応の財産は残されたものの、4人の子どもを抱えて生きていくのは並大抵のことではなく、養蚕、畑打ち、肥料運び、草履や草鞋作りと、懸命に働いた。 そうした中、うたは「世の中には自分と同じように、夫に先立たれる女性がたくさんいる。家に財産が無ければ行く末は悲惨なものだ。逃れるには、自らの力で立つしかないのに、今の世の女性にはその力が欠けている。せめて娘時代に裁縫の技能だけでも十分に身に付けておけば、子どもを養い独力で生きていける」と考えるようになる。 やがてその思いは「学校を建て、裁縫の技能を教えよう。女性の独立心を向上させ、不幸な生活から抜け出せる力を養ってやろう。それこそが、自分の後半生の事業だ」という決意に変わっていく。 1899(明治32)年、うたは熟慮の末、幼い子ども4人を預けて単身上京。東京裁縫女学校(現・東京家政大学)で裁縫と作法を修業し直すと、翌年、甲府市代官町(現・相生二丁目)に山梨裁縫学校を開校した。校舎は借宅。校長には同市太田町の稲積神社神職で学識・人格ともに声望の高かった輿石守郷翁を迎え、自らは集まった26名の生徒を前に教壇に立った。 うたの理想は職業としての裁縫であったため、指導は非常に厳しかった。一方、遠方から集まった生徒は学校に寄宿させ、愛情を持って世話をした。尋常小学校を卒業したばかりの生徒にとって、うたは師であり、母親でもあった。 1911(明治44)年、輿石校長の逝去により校長になると、1918(大正7)年に女子教育の向上を目指して山梨実科高等女学校(大正14年、甲府湯田高等女学校と改称。現・甲斐清和高等学校)を、1927(昭和2)年には、職業婦人を養成する甲府女子商業学校を開設するなど、時代の求めに敏感に対応しながら、女子教育の基盤をつくり上げていった。 うたの座右の銘は「雪中梅花」。雪の中、強く清く奥ゆかしく咲く一輪の梅の花。その精神を折に触れ生徒に説いたという。1934(昭和9)年、65歳で生涯を終えたうた。決意通り女子教育と共に生きた半生であった。 「豊かな生活能力を持つ道義高き人間を育成する」という、うたの建学の精神は、男女共学となった今も受け継がれている。 山梨県女子師範学校に学び卒業後は裁縫を修める夫との死別が生んだ女子教育への情熱山梨の女子教育の基盤をつくる創立者・伊藤うたを紹介するミニコーナーがある甲斐清和高等学校学校法人伊藤学園甲府市青沼3丁目10-1 TEL 055-233-0127ふれあい裁縫教室の様子(昭和12年)〈取材協力〉甲斐清和高等学校 〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦もりさとわら じ未来を切り拓いた郷土の誇りひ らせいか
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