ふれあい特集号vol.52(デジタルブック版)
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19山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら各地を遊学し見聞を広め目指す道を切り開く開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991 近藤喜則は、1832(天保3)年、巨摩郡南部宿(現・南部町)で本陣を務める近藤家の次男として生まれた。 近藤家は代々名主を務める財産家で、役人や文人がしばしば滞在した。10歳で手習いを始め、食客から算術などを学んだ喜則は、16歳のとき市川代官所より長百姓見習に命ぜられ、村の仕事を手伝うようになった。その後、駿河国吉原(現・静岡県富士市)の叔父の家に寄宿し、塾で漢学を学んだり、江戸や日光へ旅行したりして見聞を広めた。 19歳になった喜則は、郡中惣代を務める父の代理として、村政に携わるようになり、黒船が来航した1853(嘉永6)年には、妻を迎え、家督を継いだ。 幕末の動乱期に、次々と港が開港し、異国の文化が流入していた頃、喜則は、伊豆や江戸、長崎へ遊学し、激しく揺れ動く世の移り変わりを体感した。また、異国船から日本を守るため反射炉を造り、大砲を鋳造した伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍にも影響を受け、江川の座右の銘である「敬慎第一実用専務」(実学の体得に専らつとめること)を自らの規範とするようになった。 峡南地域の生活・文化を豊かにするという志に燃えていた喜則は、1869(明治2)年、実家裏手にある妙浄寺の一室に「修身立志の道を自得せしむるにあり」(生き方や学ぶ意味と目的を生徒自ら悟り得ること)を教育方針とする私塾「聴水堂」を創設。喜則、37歳の時だった。開塾当初は旧幕臣を師に迎え、十数人の少年らに漢学を教えていたが、神主、儒者、そして静岡から招いた師も加わるようになると、日本外交などといった講義も行われ、私塾名も「蒙軒学舎」と改めた。 1876(明治9)年にはカナダ・メソジスト教会の宣教師C・S・イビー博士を招き、英語と聖書の講義を行うなど、先進的な思想も教授した。質の高い教育が評判となり、静岡などからも生徒が訪れた。 1872(明治5)年、巨摩郡第三十五区区長に選出されると、まもなく山梨県の区長総代となり、学区総理も兼ねるようになった。諸制度の改革が急速に進められる中、1873(明治6)年に着任した藤村紫朗権令(後の県令)の下、地域行政や殖産興業にも従事した。 1875(明治8)年には、周辺の村に働き掛け、蒙軒学舎の一部を改修するなどして、義立南部病院を開院。後に県立病院の分院となり、長く峡南地域の医療を支えた。 また、喜則は、富士川沿岸のやせ地にミツマタ(紙の原料)栽培を広め、1875(明治8)年に大蔵省へ紙幣用のミツマタを納める契約を結んだ。その翌年には多額の資本金を出資して「殖産社」を設立。ミツマタ栽培の普及や品質改良に努めるなど、地元農家の経済を潤すため、無給で奔走した。その熱意は、自らを「殖産人」とも号するほどであった。 1879(明治12)年、山梨県初の県議会議員選挙で当選し、初代議長に選出される。しかし、翌年辞任し、以降はミツマタの産業講師として全国を巡回するなど、「国本ノ根底タル育成ト殖産」の実践に専念した。その後、それまでの社会奉仕の功績が認められ、1891(明治24)年に緑綬褒章を受章。1901(明治34)年、68歳で生涯を閉じた。第5回展示「郷土のために尽くした人々」期  間 : ~9月27日よしのりにらやまけいしんひでたつちょうすいどうぎ りつしょくさんじん元県令・藤村紫朗撰文の椎山近藤翁碑が、愛宕神社(甲府市)にある私塾「蒙軒学舎」を設立し子弟の教育に尽力教育の場から殖産興業へと世界を広げる

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