ふれあい特集号vol.58(デジタルブック版)
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19ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ らかわ せ かたや ざ えもんとみくにききんか わら べそうめいせんべんきんろく韮崎の豪商に生まれ生来の商才で家業にまい進20歳で上京。数々の事業を興し実業家の仲間入りを果たす山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991第8回展示「甲州財閥~近代日本を駆け抜けた山梨の人々~」期 間 : 10月1日~平成31年3月27日身延線創設50周年記念塔と創設時の功労者6名の胸像ブロンズ(身延町・丸山公園) 小野金六の胸像ブロンズ 明治の中頃から構想が始まった東海道線と中央線を結ぶ鉄道については、渋沢栄一、根津嘉一郎ら財界の名士の賛同 小野金六は、1852(嘉永5)年、巨摩郡河原部村(現・韮崎市)で造り酒屋と呉服屋を営む豪商「富屋」の当主・小野弥左衛門富郷の次男として生まれた。幼少の頃より聡明だった金六は、寺子屋に通う傍ら漢学を学び、甲府へ出て儒学も学んだ。その後、実家に戻り、家業を手伝うようになった。15歳になった金六は、両親や兄を説得し、文化華やかな江戸へ行く夢を実現した。想像以上の素晴らしさに目を見張る一方、自身が大成するには、江戸の人々以上に忙しく立ち回り、広い視野で物事を見ていくよりほかないと決意した。 実家に戻った金六は、一層家業に励む傍ら、国内の情報を集めて商売に活用するようになった。そのような中、行商先の信州で養蚕が成功していると知れば、開墾した地に取り寄せた桑の苗を移植したり、周囲の農家に桑の苗や蚕種を提供したりして養蚕業を広めた。 また、明治の初めに県内一円が塩飢饉に陥ったときは、県に直談判して塩の確保を要請。兵庫県の赤穂へ塩の買付けに向かう役人に同行し、大量の塩を仕入れて塩不足を解消した。こうした功績が認められ、ほどなく甲府県酒造組合取締役に就任。後に甲州財閥の総帥となる実業家・若尾逸平から婿養子に迎えたいとの申し出もあったが、上京の夢があったため断った。 1873(明治6)年、大志を抱いて上京した金六は、為替方で貿易商の小野組に職を得て、商才を発揮した。1877(明治10)年、東京・深川の廻米問屋で米倉庫の主任を務めていた金六は、西南戦争で米の価格が高騰すると予測し数千石の米を買い占めた。金六の読みは見事に当たり、米相場は暴騰。巨額の利益を得た。金六の商才は瞬く間に広がり、実業家の仲間入りをした。 1882(明治15)年には、東京機械製造を創立し取締役に就任。その後、製油業に先鞭をつけ数々の鉄道事業を立ち上げたほか、東京割引銀行、富士製紙などを創立していった。さらに、1896(明治29)年には、若尾逸平や根津嘉一郎らと東京電灯の株式を買占め、水力発電による電力供給の安定を図るなど、時代が要請する事業を次々と多角的に興しては、要職に就いて経営した。を募り、自ら敷設委員長に就任して計画を推進。1912(明治45)年に富士身延鉄道(現在のJR身延線)を創立して社長に就くと、難工事や第1次世界大戦による物価高騰などの苦難を乗り越え、ついに1920(大正9)年、富士から身延間の開通に成功した。また、金六は、県の政財界で活躍する名士を一堂に集め、富士北麓を世界的大公園にする構想について演説した。その中では、外国人観光客が富士山麓に興味と憧れを抱いていること、こうした人たちの受け入れ体制が整えば年間2万5千人の観光客が見込めることなどを主張し、県の協力援助を要請した。残念ながら金六は、身延線全線開通や富士北麓の開発を待たず、1923(大正12)年に71歳の生涯を終えたが、その遺志は富士急行創設者の堀内良平に受け継がれた。富士身延鉄道の敷設と富士北麓開発に情熱を注ぐ
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