ふれあい特集号vol60(デジタルブック版)
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21ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ らよう だり え も んさくえもんけいめいけたゆき山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991第9回展示「近代甲府を彩った人々─県都甲府500年─」期 間 :4月1日~9月27日官営富岡製糸場に次ぐ規模であった赤れんが造りの県営勧業製糸場 (山梨県立博物館蔵)た。雅樹は、製糸事務取締に任命され、勧業製糸場の運営と生糸の質の向上に取り組むこととなった。 雅樹は勧業製糸場の経営を順調に進め、勧業製糸場で作られた生糸は次第に諸外国の信用を取り戻し、市場価格 名取雅樹は、1814(文化11)年、甲府山田町の紅問屋・和泉屋利右衛門の次男として生まれた。1850(嘉永3)年、本家の名取作右衛門の娘・志んと結婚し、紙、綿、生糸、蚕種の商売を営んだ。山梨では、古くから養蚕業が盛んだったが、幕末になると高品質の生糸が生産されるようになり、近畿地方に運ばれ織物原料として用いられた。1859(安政6)年の開港により生糸が主要な輸出品になると、一気に需要が高まり、甲州産生糸も横浜港から諸外国へ積み出されていった。しかし、その頃から、質の悪い糸を良質の糸で覆ったり、束ねた糸の中心に金属片を入れて重さをごまかしたりといったことが横行し、甲州産生糸の信用は地に落ちてしまった。 このような状況の中、雅樹は良質な生糸を作るためには、機械の改良が必要と考えるようになり、1871(明治4)年に製糸工程の手間を省く画期的な機械を完成させた。雅樹はこれを「名取器械」と名付け、工場を開いて製糸業を開始。翌年には、上質な生糸を安定して生産できるまでになった。 1873(明治6)年に山梨に赴任した藤村紫朗権令(後の県令)は、権参事の富岡敬明と共に名取器械を高く評価。大蔵省に功績を賞するよう上申し、雅樹に報償金が与えられた。さらに藤村は、甲府錦町に県内製糸業の模範となる県営勧業製糸場の建設計画を打ち出すと、そこに名取器械を導入し、建設運営事務担当に雅樹を指名した。当時の山梨において近代工業は未成熟であったため、工場の壁となるれんがを作る焼場などを建設したり、釜を作るための資材として寺から鐘を買い集めたりする必要があり、勧業製糸場建設は困難を極めた。しかし、雅樹は情熱をもってその任に当たった。 1874(明治7)年10月、ついに勧業製糸場が完成した。これは、桁行約63メートル、梁行約9メートルの赤れんが造りの大工場で、水車を動力とした作業場に、倉庫、食堂、催し物や会合を行う会所などを備えていた。また、女工200人(後に400人に増加)が働き、群馬県官営富岡製糸場に次ぐ規模であった。開業式には花火が打ち上げられるなど、まるでお祭りのようであっも上昇していった。この評判は養蚕業や製糸業を営む人々に広がり、丁寧に作った生糸が大きな利益を生み、手を抜いていい加減に作った生糸が損失になることを理解することとなった。勧業製糸場の開業以降、わずか数年の間に甲府を中心として、民間の器械製糸場が次々と創業していき、山梨の生糸生産額は上昇していった。1879(明治12)年には、日本における全生糸生産額の2割弱を占めることとなった。また、勧業製糸場で作られた生糸が内国勧業博覧会や仏国万国博覧会に出品され、共に入賞し、その質も高く評価され、雅樹が運営する勧業製糸場は山梨の製糸業を大きくリードしていった。 人生を製糸業に捧げ、その情熱と探求により、山梨の製糸業が繁栄する礎を築いた雅樹は、1900(明治33)年、その生涯を閉じた。山梨の製糸業の近代化に貢献県営勧業製糸場の建設と運営に尽力製糸業の将来性に着目し「名取器械」の開発に心血を注ぐはりゆき
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