山梨てくてくvol.07
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鎮めるために河口浅間神社が創建され、多くの参拝者が訪れるようになり、御師の町としても発展していきました。御師とは、参拝者(道者)を泊めてもてなしたり、祈祷、案内など一切を請け負ったりした地元の神職者のことで、河口にも最盛期には140軒もの御師の家がありました。しかし、その後、富士講の大流行による大衆化で富士吉田に拠点が移り、河口御師は徐々に衰退していったのです。しかし純然たる富士山信仰を考える時、その基礎を築いた河口に、私は深い意義を感じています」 「『上の坊プロジェクト』は組織化はしていません。声を掛けて集まってくれた人と一緒に活動をするスタイルをとっています。さまざまな活動の一つに、東日本大震災の復興祈願と鎮魂を目的として、毎年7月と8月に行っている『富士山への代参』があります。代参とは、代わりに富士山に登り山頂で祈ることです。富士山を登った時の印象はその都度違い、言葉にできるものではありません。登って初めて分かるものなのです。人々が昔から富士山にこれほどまで引きつけられるのは、富士山が『未知』であるからではないか、と私は感じています」 「私を魅了した河口の素晴らしさを伝えるための活動が、これからも地域の活性化と未来を担う子どもたちの誇りにつながっていってくれたら、うれしいと思います」一冊の本との出会いがふるさとの素晴らしさに気づくきっかけに古来より「未知」であるからこそ人々を引きつけてきた富士山 地元、富士河口湖町河口地区の歴史や文化を掘り下げ、発信をするために『上の坊プロジェクト』を立ち上げた外川真介さん。「もともと歴史が好きというタイプではなかったんですよ」と笑う外川さんが地元の歴史に興味を持ったのは、偶然手にした一冊の本がきっかけでした。「古新聞などの集積所で見つけた『河口湖町誌』を読み、自分が生まれ育った河口が、実はとんでもない魅力がある、世界に誇れる町であることを知ったんです。そこでスイッチが入りました。子どもと一緒に地元を歩いてみると、今までは気づかなかった貴重な歴史の痕跡を見つけることができました。これは、もっとしっかり地元の歴史を学び、次の世代につなげていかなければならない、そして外にも発信していく必要性を強く感じたのです」 河口は奈良時代には宿駅ができ、人々や文化、物資が行き交う拠点であり、富士山信仰もここから広がっていったといわれています。「富士山の噴火を河口浅間神社東日本復興祈願富士山代参で訪れた、富士山頂火口前じょうのぼうお しきとう11
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