山梨てくてくvol.14
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瘡毒(そうどく)・皮癬(ひぜん)冷え疝癪(せんしゃく)・火傷留飲・腹痛打ち身・切り傷・でもののぼせ・眼病・諸病冷え・痔疾(じしつ)・不妊甲府市湯村甲府市御岳町韮崎市円野町早川町湯島身延町下部山梨市三富川浦甲州市塩山上於曽所 在起源・由緒など効 能温泉名湯 村黒 平御座石湯 島下 部川 浦塩 山弘法大師などが発見、信玄・勝頼が入湯近世初期に発見、金桜神社が経営近世後期に整備、くみ湯専用8~9世紀に発見、徳川家康が入湯836年、熊野の神が出現して湧出、家康が入湯1193年、源頼朝の巻狩がきっかけで発見1380年、向嶽寺開山の僧・抜隊得勝が発見武田家の御用温泉から庶民の湯治場となった「湯村温泉」 戦国時代になると武田信玄や将兵たちが温泉で傷を癒やし、療養したとされていることから、武田家の領国内にあったいくつもの温泉が、後に「信玄の隠し湯」と呼ばれるようになりました。『甲陽軍鑑』では、天文17(1548)年、信濃塩尻峠(長野県)における合戦で負傷した武田信玄が、しまの湯(現在の湯村温泉)で湯治したと伝えられています。また川浦温泉には、永禄4(1561)年に武田信玄が、そこを管理していた恵林寺に宛てて、温泉施設の修繕のためのお金を集めることを許可したことが分かる資料が残っています。このようなエピソードが信玄の隠し湯伝説につながっていったと考えられています。 湯村温泉の歴史は古く、その起源についてさまざまな伝承がありますが、記録としては16世紀前半ごろから現れ始めます。武田家は湯村に「御湯座敷」と称する施設を持っていたと記された古文書もあり、御用温泉的な役割を果たしていたと考えられています。京の公家なども利用していたとされ、湯治中には、武田氏の居館であった躑躅が崎館(現在の武田神社)で歌会が催されることもあるなど、湯村温泉は文化サロンのような存在でもあったようです。 武田家滅亡後も、歴代領主たちは湯村温泉の整備・保護に努め、時には幕閣の中枢にある日蓮聖人立像(身延山奥之院)昭和初期の湯村温泉(『写真集 山梨百年』より)(左) 昭和30年ごろの下部温泉(若林賢明氏 撮影)(右)江戸時代における甲斐国内の主な温泉つつじ05
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