山梨てくてくvol.14
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温泉場の大衆化はさらに進み、温泉の効能も口づてに広がっていきました。そんな中で町中の湯場は庶民の日々の楽しみの場になっていったのです。明治以降、例えば深町(現在の甲府市城東)では、湯場が次々と開業。夏になると農作業を終えた人たちが湯で汗を流し、おすしを食べて映画を見に行くのを楽しみにしていたそうです。湯場の周りには屋台が出て、ところてんや、枇杷葉湯(枇杷の葉などを煎じたハーブティーのようなもの)などが売られていて、湯上り客が浴衣姿で世間話をしたり、将棋を指したりしていました。また、隣接する料理屋の2階広間では義太夫や笛・尺八を披露し合うなど、湯場は夏の庶民の楽しみの場として大層にぎわったようです。 このように温泉場の大衆化が進む一方で、県内の閑静な温泉郷は、太宰治ら文豪たちの創作意欲をかき立てる文化創造の場となっていきました。山梨各地の温泉はそのひなびた風情や豊かな自然が文学と融合し多くの文豪に愛されたようです。 昭和36(1961)年には石和温泉が湧出しました。果樹園から噴き出した湯は近くの川に流れ込み、地元の人々に「青空温泉」として親しまれました。やがて、都心からのアクセスの良FEATURE温泉はいつも人々の近くにある憩いの場これからも温泉は人々を癒やし歴史を重ねていく寺社奉行も湯治に訪れました。ところが、享保9(1724)年に幕府直轄領となったことで領主不在となり、温泉の管理・運営は地元の人々の手に委ねられることになりました。庶民が運営・利用する湯治場となった湯村温泉は、城下近郊であったことや、平場のため季節を問わず利用できたことなどから、甲斐国随一の集客を誇りました。敷地内には牛馬専用の「野湯」と呼ばれる温泉もあり、農耕や運送に使っていた牛馬も入っていたそうで、当時、牛馬をとても大切にしていたことがうかがえます。 山梨の温泉は冷泉が多く、盆地の暑い夏をしのぐのに適していました。現在は営業していませんが、かつて金峰山参詣客や甲府の人々に滞在型の温泉として親しまれた黒平温泉がありました。江戸時代の町人で旅籠屋を営む傍ら俳人としても知られていた鈴木調之の日記には、甲府の商家の旦那衆が商売が暇になる時期を見計らって、仲間と湯治と称して黒平温泉に滞在し、大宴会を繰り返したなどと記されています。旦那衆は7日間くらいを療治目的ではなく日常からの開放感に浸るための楽しみとして過ごし、家に帰ると今度は女性たちが、向嶽寺門前に湧出し、冷えや不妊などに効くと知られていた塩山温泉に湯治に向かったといいます。並山日記(山梨県立博物館蔵) 江戸時代の塩山温泉が描かれているなみやま昭和初期の塩山温泉(『写真集 山梨百年』より)の ゆくろべらえんざんはたご やちょうしび わ ようとう06
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