ページID:77458更新日:2017年2月15日

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国指定 重要文化財(建造物)

窪八幡神社本殿

  • 窪八幡神社本殿 附旧壁板(永正十六年)5枚 (くぼはちまんじんじゃほんでん つけたりきゅうかべいた5まい)

明治40年8月28日 指定 / 平成10年12月25日 追加指定

所在地 山梨市北654

所有者又は管理者 大井俣窪八幡神社

 

 大井俣窪八幡神社は一般に窪八幡の名で知られる。社記によれば貞観元年(859)、清和天皇の勅願によって豊前国宇佐八幡宮を勧請し、笛吹川の中島であった大井俣の地に祀り、大井俣神社と称したのがはじめといわれ、延喜式内の古社と伝える。その後、水害により現在の窪の地に遷座し、新たに窪八幡宮と呼ばれるようになった。祭神は誉田別尊・足仲彦尊・気長足姫尊の八幡三神を祀り、かつては単に八幡宮と呼ばれた。明治期には再び大井俣神社を称したが、のち現社名に改められた。社殿は康平6年(1063)に新羅三郎義光によって再建され、また神領などの寄進があったという。中世に至って甲斐源氏一門とくに武田氏代々の崇敬が篤く、本殿はじめ社殿の造営、修覆が相次いで行われた。この神社は室町時代以来の古い社殿配置や建物をきわめてよく伝えており、現在では主要社殿8棟、鳥居1基がそれぞれ重要文化財に、また鐘楼1棟が県有形文化財に指定されている。境内は南向きで、正面に神門、参道上に鳥居が建ち、南方に笛吹川が流れる。社殿は神門内に2つの段地を造って大きく分け、上段正面に拝殿、その奥に本殿、東隣りに摂社若宮八幡神社拝殿、本殿、西隣りに末社武内大神、高良神社各本殿、下段神池の中島に末社比咩三神本殿を配置する。なお上段に明治初年の神仏分離のときに残った鐘楼がある。

 現在の本殿は享禄4年(1531)に武田信虎の再興したものと伝えていたが、昭和26年(1951)の解体修理で永正16年(1519)の墨書を発見し、このときが壁画制作と知られ、建物は墨書に示す年代の頃に建立、享禄は修理であることが明らかとなった。

 本殿は、三間社流造の3殿が、1間の相の間をはさんで連結され、これをひと続きの屋根に収めて1棟の十一間社流造としたものであって、いわゆる連棟社殿と呼ばれる特異な形式になる。3殿かく社の正面中央間にのみ擬宝珠高欄つきの階段七級を設け、各社間の相の間には嵌殺し格子戸を入れている。身舎、向拝ともに円柱とし、身社柱上は平三斗の組物を組み、頭貫先端は木鼻をつける。身舎前面と側面梁間2間に刎高欄つきの榑縁(くれえん)をめぐらし、背面柱筋に脇障子を備える。各社殿ごとに正面中央を幣軸構えとして両開き板唐戸を開き、両脇間は板壁とする。向拝は身舎前面にひと続きに付き、各柱上に平三斗の組物をのせ、隅柱のみ連三斗を組み、11間通しの頭貫先端には木鼻をつける。各社殿の身舎隅柱からそれぞれ繋虹梁を架し、向拝各柱間には上げ下げできる蔀戸を入れ、各社殿階段下には開口全面に浜床を設ける。このように本殿は各神殿ではそれぞれ3間社の構えをみせるが、全体として異例の長大さにかかわらず均整のとれた建物に見事にまとめられている。

 妻飾りは豕杈首(いのこざす)組で、破風には猪目懸魚を付ける。屋根は切妻造、桧皮葺である。

 各社殿正面の板唐戸(扉)は金箔押しに八双金具を打って装飾し、両脇間には金箔押しのうえに華麗な装飾壁画が描かれている。また本殿の各部にも丹塗り、墨塗りなど彩色が施されている。扉の金箔装飾は弘治3年(1557)に武田晴信(信玄)が荘厳を加えたという記録が残っている。

 この本殿は長さ17.18メートルに及ぶ連棟社殿で、均整のとれた全体の比例もよく、装飾性に富んだ細部意匠もすぐれ、神社建築の新機軸を出した類例の少い室町時代の遺構としてみるべきものがあり、さらに武田氏の文化の姿を現在に留めるものとして貴重である。

 

 

 

 

 

 

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