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ページID:4621更新日:2023年3月3日

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埋蔵文化財センター_やさしい「まいぶん」用語集

 

まいぶん用語集(仮)試行中

柄鏡形敷石住居(えかがみがた・しきいし・じゅうきょ)

平面形態が柄鏡に似ていることから柄鏡形住居の名がつき、なかでも床面に石が敷かれているものを柄鏡形敷石住居といいます。

縄文時代の中期後葉から後期にかけて関東地方を中心として発達した住居で、竪穴式住居のひとつです。住居部分は円形または方形の平面で、鏡の柄にあたる部分は住居の入り口であると考えられています。

竪穴状遺構(たてあな・じょう・いこう)

集落遺跡の中にみられる遺構のひとつです。地面を数十センチメートルの深さに掘ってつくられた、半地下式の建物の跡です。

この竪穴状遺構のなかに、日常的な生活を裏付ける炉やカマドなどの施設があると、それは竪穴住居跡ということになりますが、たんに竪穴状遺構という場合は、住居とは考えにくいものを指しています。

山梨県内で、竪穴状遺構は、古代から中世の時代のものが多く見られ、何かの作業場のような施設であることが多いようです。

横穴式石室(よこあなしき・せきしつ)

横穴式石室は、古墳時代後期から飛鳥・奈良時代にわたってつくられました。地平面に床面をつくり、側壁・奥壁を石材で構築し、その上に大きい天井石を乗せて玄室(墓室)をつくり、その前に羨道(通路)を設けるかたちをとります。

羨道は一般的に玄室より幅は狭く、玄室と羨道の接続部を袖部といいます。形式は袖部が、一方に偏った「片袖型」、真ん中にある「両袖型」、玄室と羨道の区別のなく袖部がない「無袖型」があります。

甲斐型土器(かいがた・どき)

奈良時代の終わり頃から平安時代の中頃にかけて、盛んに生産された甲斐地域に特有の土師器(はじき)のことです。

器形の種類(「器種」といいます)には、坏(つき)、皿、甕(かめ)などが見られます。このうち坏や皿は、外面をへら削り、へら磨き、内面を暗文(へら磨き)といった技法で調整していることや特有の赤褐色の色調が特徴といえます。代表的な器種である坏は、初めは箱型をしていますが、徐々に底の直径が小さくなっていくなど、細かな時代による移り変わりがあり、これまでの研究で、4分の1世紀ほどの間隔で編年が組み立てられています。

こうした甲斐型土器は、駿河〈静岡〉、相模〈神奈川〉、信濃〈長野〉などの周辺地域ばかりでなく、奈良の都でも確認されており、当時の人の行き来について示唆を与えています。

泥面子(どろ・めんこ)

型を使って粘土を形作り素焼きにした、1~3cm程の小型の土製品です。

恵比寿・大黒・鯛などの縁起物や人物・動植物などをかたどったレリーフ状のもの、文字や家紋の入った円盤状のものなど、モチーフも形状も様々なものがあります。

子どもの玩具であるとも、家内安全や商売繁盛などを願う時に用いられたりしたものであるともいわれています。

円形周溝墓(えんけい・しゅうこうぼ)

弥生時代から古墳時代に見られるお墓です。円形で土を盛り上げ、その中心部を掘り下げて亡くなった人の遺骸を埋葬します。お墓のまわりには溝をめぐらします。溝の一部が切れていて、主体部へわたれるようになっている場合もあり(ブリッジ)、その周辺の溝から多量に遺物が出土することが多いことから、そこで葬送儀礼が行われていたと推測されます。

登り窯(のぼり・がま)

須恵器とともに大陸から伝えらたもので、丘などの傾斜地をトンネル状にくりぬき、下に焚き口、最上部に煙出しを設けた窯です。焼成の終わりに大量の薪を投入し、焚き口を閉じることで空気の流入が制限され、焼き物が酸欠状態になり、粘土中に含まれる鉄分が反応して灰色の焼き物(須恵器)が焼き上がります。窯の最高温度は1,200度にもなり、土師器が野焼きで800度前後で焼成されるのと比較して、とても高温であることがわかります。登り窯が伝えられたことで、埴輪なども登り窯で焼かれるようになりました。

ハソウ(はそう)

ハソウは、古墳時代中期に渡来人によって大陸から伝えられた須恵器のうつわの一つです。胴部に穴が空いており、これは上部から液体を入れ、胴部の穴に竹の節を除いたストロー状のものを差して注ぐというもので、お祭りの時などに使われたと考えられています。またこの時期、須恵器のハソウをまねして、土師器のハソウが作られた例もあります。

須恵器のハソウは、山梨県では中道町岩清水遺跡の他に、笛吹市御坂町二ノ宮遺跡、東八代郡豊富村高部宇山平遺跡などでも出土しています。

なお、ハソウの漢字は「ハソウ」の外字標記ですが、通常のテキストとして扱える文字ではありません。

須恵器(すえき)

須恵器とは、今から1,500年程前の古墳時代中期(5世紀)の初めに、大陸より渡来人によってもたらされた焼き物です。登り窯(穴窯)で焼かれるため、硬くて青灰色をしています。

こうした須恵器の生産が、国内でいち早く始った地域は、大阪府堺市周辺の丘陵地帯や北部九州で、前者では陶邑(すえむら)窯跡群、後者では福岡県の八並窯跡群などがよく知られています。

朝鮮半島の影響が強く残っている初現期のものをとくに「初期須恵器」といい、また様々な器の種類があり、一定化しない5世紀段階のものについては「古式須恵器」と呼ばれることがあります。こうした5世紀代の須恵器は、数も少なく大変貴重で、宝物としての意味合いが強かったようです。

山梨県で最も古い須恵器は、中道町米倉山遺跡第10号土坑から出土した大甕です。これは5世紀の初めに作られたものであることがわかっています。

かわらけ

素焼きの土器の総称として「かわらけ」ということもありますが、考古学の分野では、一般的には、平安時代以降出現する土師質や瓦質の土器を、「かわらけ」といいます。

とくに山梨では、中世から近世にかけての、土師質で、浅めの皿形をした土器を指すことが多く見られます。

木棺墓(もくかん・ぼ)

木で作られた棺(木棺)を用いた墓です。

とくに板材を組みあわせてつくった木棺を、直接大地に埋納されるものが一般的です。

人形(ひとがた)

人体を模した小型の木製品・土製品・石製品・金属製品などのことです。呪儀や祭祀等の宗教的儀礼に用いられました。

木製のものは主として奈良・平安時代に属するもので、薄い板材を用い、正面を向いたもので、頭部から足までの全身をあらわすのが普通であり、顔面に目鼻口などを墨書しているものもあります。長さは10数cmから20cmくらいのものが多く見られます。(日本考古学用語辞典参照)

墨書土器(ぼくしょ・どき)

墨で文字や絵などが書き込まれた須恵器や土師器などの土器です。墨書土器は奈良・平安時代を中心として発達しました。

墨書される土器は、坏(つき)・埦(わん)・皿などに多く、そのほか、高坏・甕などにも見られます。墨書箇所は、胴部外側、底の外側、まれに内側、蓋の外側などに多く見られます。墨書文字は一文字が多く、複数文字は数少ないです。

墨書の内容は、地名をあらわすものや建物・施設の場所をあらわすもの、人名、落書き、習書など様々です。

墨書土器からは、文献や木簡やその他の金石文などに見れらない建物や地名・人名を知ることができます。また、当時の信仰・思想・生活の一面や出土している遺跡の性格も推定することができます。

硬玉製大珠(こうぎょくせいたいじゅ)

硬玉(翡翠とされるもののなかでも硬度が6.5~7、一般に白味がかった緑色で、日本では新潟県の糸魚川周辺に産出する)でつくられた長さ約10センチ前後の長円形のものです。紐を通す孔があけられています。

縄文時代中期・後期につくられ、北陸や中部関東地方など東日本に多く出土しています。一種の身体装身具ですが魔除けや呪術的な性格も含まれていると考えられています。

 

 

 

 

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