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ページID:64160更新日:2015年5月26日

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遺跡トピックスNo.0409釜無川堤防群遺跡No.23

 

南アルプス市の遺跡

  • 0006十五所遺跡-方形周溝墓-
  • 0010大師東丹保遺跡-網代-
  • 0108大師東丹保遺跡-遺跡から発見された地震のツメ跡-
  • 0149大師東丹保遺跡-木製品-
  • 0200大師東丹保遺跡-出土した種子は何?-
  • 0259大師東丹保遺跡-下駄-
  • 0287大師東丹保遺跡-扇子の骨組-
  • 0357大師東丹保遺跡-洪水に埋もれた中期古墳-
  • 0392大師東丹保遺跡-地震痕のある遺跡-
  • 0017二本柳遺跡-木棺墓-
  • 0122二本柳遺跡-福寿院跡-
  • 0164二本柳遺跡出土の擂鉢-
  • 0276二本柳遺跡-火きり臼-
  • 0023宮沢中村遺跡-昆虫・網代-
  • 0051仲田遺跡-田んぼ-
  • 0052百々遺跡-八稜鏡-
  • 0065百々遺跡-錘-
  • 0066百々遺跡-馬の骨-
  • 0101百々遺跡-洪水の跡-
  • 0136百々遺跡-浄瓶-
  • 0172百々遺跡-平安時代の住居跡-
  • 0269百々遺跡-黒色土器-
  • 0274百々遺跡-古代のウシ・ウマ-
  • 0077善応寺遺跡-祭祀の水場-
  • 0081油田遺跡-田んぼと木製品-
  • 0144油田遺跡-木製竪杵-
  • 0231油田遺跡-体験学習用の復元品-
  • 0084堤防遺跡No.23-堤防の内部-
  • 0409釜無川堤防跡遺跡-
  • 0105石橋北屋敷遺跡-道路跡・区画溝-
  • 0106村前東A遺跡-パレススタイルの壺-
  • 0241村前東A遺跡-手焙形土器-
  • 0250村前東A遺跡-住居跡-
  • 0286村前東A遺跡-S字甕-
  • 0139宮沢中村遺跡-茶碗の焼継ぎ-
  • 0163大塚遺跡-約1,700年前の家の跡-
  • 0168新居道下遺跡の住居跡-
  • 0216長田口遺跡の鏡片-
  • 0340向河原遺跡-水田跡と杭列-
 

【山梨県の治水事業】

「山梨県と水」は切り離せない歴史があります。山梨県には富士川・釜無川・笛吹川をはじめ,急流の河川が多く存在しています。これらの河川が人々の生活を豊かにし,かつ洪水によってその生活を脅かしてきました。前者の具体例としては,富士川水運の発達による経済的な繁栄及び水利事業による新たな農地の開拓が,後者の具体例としては,洪水や土砂災害による被害がそれぞれあげられます。「治水(ちすい)」という言葉がありますが,古来から甲斐の国人はこれに腐心してきました。「治水」のための遺跡としては,戦国時代の「信玄堤」が有名ですが,これ以前の時代もこれ以降の時代も山梨県では治水は重要な事業でした。山梨県は地形的に洪水による被害が甚大で,明らかな資料が残る明治40年代の2度の洪水では多大な人的被害・物的被害が生じました。

日本最古の堤防として有名な大阪府寝屋川市の淀川沿いの茨田堤(まんだのつつみ)は仁徳天皇の時代の5世紀に渡来人の技術により建造されたと日本書紀に記されています。山梨県内でも古代から「治水」は支配者にとっても農民にとっても生活にかかわることでした。山梨県に関しては,10世紀の延喜式に記されている甲斐国の雑徭に「堤防料二万束」という項目が存在します。このことからも甲斐国において治水が行政上の重要課題であったことがうかがえます。

所在地南アルプス市下高砂

時代近世・近代

報告書釜無川堤防遺跡群(堤防遺跡No.23)報告書227集2005年(平成17年)発行

調査機関山梨県教育委員会埋蔵文化財センター

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釜無川堤防遺跡No.23の堤防横断面

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北側から見た堤防遺跡No.23

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人力による発掘作業

【釜無川堤防遺跡群(堤防遺跡No.23)】

釜無川堤防遺跡No.23は,南アルプス市下高砂835に所在する遺跡で,山梨県総合交通センター建設に伴って当センターが発掘調査しました。この遺跡は,釜無川の西岸にあり,釜無川の洪水に対処するために築かれた堤防です。この地域は釜無川と御勅使川の合流点の下流にあり,勢力を増強した水流が釜無川西岸に流入する地点で治水の要となる場所であることからこの付近には数多くの堤防遺跡が存在しています。

写真の堤防は砂礫によって築かれています。また,洪水などの外的要因によって破損・補修した痕跡が見受けられ,水との戦いの様子がうかがえます。構築年代は,堤体内から出土した木材の年代測定から江戸時代後期から明治時代初期に断続的に築かれ,補修されたものと推定されます。『八田村誌』に記載された古文書には,下高砂に天保8年(1837年)に「百間堤」が建造されたという記載がありますが,この堤防がこれに該当する可能性が高いと思われます。

【現代社会と治水事業】

山梨県は,その地理的要因により大雨による洪水の被害に古くから悩まされてきました。文字資料の残る中世からたびたび洪水の記録が残されており,戦国時代には武田晴信(信玄)により釜無川流域の洪水を防ぐために御勅使川の流路変更と信玄堤の造営が行われたものといわれ,江戸時代にも堤防の造営は継続されました。竜王の三社神社で川除けの神事が行われるようになったのも晴信の時代だとする見解もあります。江戸時代の記録を見ると約4年に1度の割合で,山梨県内は洪水の被害に見舞われていました。明治時代以降は,近代的な治水工事・砂防工事が行われるようになりましたが,明治40年と明治43年の大水害では笛吹川流域を中心に未曾有の被害が生じました。昭和時代になってもコンクリート製の橋が流されるほどの洪水がたびたび発生しています。戦後でも,昭和34年の7号台風と15号台風(伊勢湾台風)で堤防の決壊や橋の流出・大破が,昭和57年の10号台風と15号台風で橋の流出・大破が発生し,被害が生じています。

平成以降の山梨県では,治水・砂防への精力的な取り組みやその技術の進歩により洪水を伴う大規模な災害は,他の都道府県と比較して大幅に減ったといってよいといえます。古くから河川の氾濫に山梨県民は苦しめられてきましたが,現在では大雨に対しての対応が迅速になされています。それでも,今後も想定外の災害が発生する可能性もあります。昨年は未曾有の大雪による雪害で農産物などに多大な被害が生じました。東日本大地震クラスの地震や富士山の噴火も想定される昨今であり,そのためのハザードマップ等も作成されています。洪水とその被害についても災害が起こりうること事態を想定し,想定外の大雨や緊急事態への対応も考えていかないとなりません。

いにしえの先人たちは石を積み,砂礫を盛り上げて堤防を築きました。

これは先人たちの生きるための知恵から作られた産物です。

県内ではこの地域の他に韮崎市や山梨市に複数の堤防遺跡が現存しています。

 

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電話番号:055(266)3016   ファクス番号:055(266)3882

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