トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 遺跡トピックス ??422 谷村城?水にまつわる遺構〔都留市〕
ページID:67706更新日:2015年8月18日
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都留市の遺跡
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谷村城の発掘調査について埋蔵文化財センターは、平成26年度と27年度に、都留市の谷村城で発掘調査を行いました。調査を行った地点は、甲府地方家庭裁判所都留支部の敷地内で、江戸時代は谷村陣屋、明治時代には谷村区裁判所となり、山梨県東部地域の中心となっていた場所となります。 埋蔵文化財センターHPの「発掘調査情報」では、すでに谷村城の遺跡見学会の様子や、金貨・銀貨発見についての速報をお知らせしてきました。 発掘調査の成果の中でも、注目できる点として、水路や井戸といった水にまつわる遺構が発見されたことが挙げられます。これらの遺構は、谷村城(谷村陣屋)、そして都留市の歴史を考えていく上で重要なトピックと考えられます。 今回の遺跡トピックスでは、谷村城で発掘された水路や井戸といった遺構から、谷村城と水の歴史について考えていきます。
☆谷村城については、過去の遺跡トピックスもご覧ください! 水路まずは、水路からみていきましょう。谷村城では、水路と考えられる溝状の遺構がいくつか発見されました。 写真:3号溝状遺構・・・両脇に石を並べ、まっすぐにのびています。 写真:26号溝状遺構・・・保存状態の良い遺物が多く出土しました。 トップページの写真は、遺物を取り上げて掘りきった状況です。
これらの水路は出土した遺物から、江戸時代の後半期(150 ~250年前)につくられたものと考えられます。この時期は、ちょうど谷村陣屋が築かれていたころであり、水路は陣屋に伴うものであった可能性があります。
また、発掘調査を進めていくと、東西方向にのびる26号溝状遺構よりも古い時期の、南北方向にのびていたと考えられる溝(32号溝・34号溝)を確認しました。 写真:南北方向の32号・34号溝とそれより新しくできた東西方向の26号溝
32号・34号溝状遺構は、名前を分けましたが、もともとはひとつの溝であったと考えられます。 この溝は両脇に石をならべておらず、簡易的に造られたものでした。砂を含んだ砂利層が堆積していたため、石を配している溝と同じように、水路としての役割を果たしていたと考えられますが、長い期間使用することを目的につくったわけではないのかもしれません。 その理由として、調査でみつかったいくつかの簡易的な溝状遺構が、江戸時代の遺構面において入り乱れるようにみつかったことが考えられます。そして、この「水路をつくりかえる」という行為は、敷地内の建物などの配置を移し替える土木事業に伴っている可能性が高いものと考えられます。 ではなぜ、何回も水路をつくりかえる―敷地内の建物の配置を移し替える―ことが行われたのでしょうか。谷村陣屋は、専任代官と呼ばれる専属的な代官がおらず、出張陣屋と呼ばれるように、他の地方の陣屋に勤める代官が兼務する形をとっていました(対して、国中地域の3つの陣屋は、すべて選任代官が常駐していました)。谷村陣屋を管轄した代官の数は、幕末にかけてなんと39人に及ぶといわれております。めまぐるしく代官が交代する中で、たびたび自分の都合のいいように建物や水路のたてかえを命じるような人があらわれたかもしれません・・・。が、あくまで仮説の一つです。 井戸もうひとつ、水にまつわる遺構として、井戸の発見を取り上げます。 谷村城では、平成26年度の調査で井戸は発見されなかったため、調査担当者は、当時の人々は水路から取水していたと考えていました。しかし、このたび平成27年度の調査において、2基の井戸を発見しました。山梨県東部地域において考古学的に調査された井戸は、初めての例となります。 写真:1号井戸。溶岩を円形にならべています。 写真:上の写真の井戸(1号井戸)を半分にたちわった様子です。 写真:2号井戸の完掘写真 1号井戸に比べて、2号井戸は浅い造りです。砂利が滞積している自然流路と思われる場所の上に造られており、水を簡単に得ることができる仕組みになっていたと考えられます。 さて、写真は1号井戸が発見される前段階に発見された7号礫集中という名前をつけた遺構です。赤い点線が1号井戸なのですが、当初はそれが分からないほど、ランダムに大きな石が1号井戸付近に散らばっていました。おそらくこれは、1号井戸が使われなくなった後、周辺の施設で使われていたと思われる礫をまとめてすてたことによってできたものでしょう。 井戸の年代観ですが、残念ながら1号井戸・2号井戸とも、小さな破片の遺物が多く、そこからでは判断することができません。ですが、7号礫集中から発見されている遺物は江戸時代の終わり頃から明治期にかけてのものと見られ、少なくとも1号井戸は江戸時代末以前に使用されていたものと考えられます。 甲府城下町と比較して・・・それでは、東部地域では初めての発見だった谷村城の井戸と、すでに多くの井戸が発見されている甲府城下町遺跡と比較してみましょう。 図:甲府城下町遺跡の井戸 甲府城下町遺跡からは、多くの井戸が発見されています。さて、この写真や実測図をみると、谷村城で見つかった井戸に比べて、非常に深く掘られていることに気づきます。谷村城の井戸が、50~80cmほどしか深さがなかったのに対して、甲府城下町遺跡の井戸は深いものだと3m以上掘り込まれています。甲府城下町では、新鮮な水(地下水)を得るために相当な労力をかけていたことがわかります。優劣というわけではないですが、谷村城のほうが水源の豊富な環境にあったといえるのです。
では、話を谷村城でみつかった井戸に戻しましょう。谷村城の井戸は、とても浅く、また井戸とは別に水路が存在しているということがおわかりいただけたかと思いますが、それならなぜわざわざ井戸をつくる必要があったのか、という疑問があらわれます。 江戸時代、水源が地下深く眠る土地では、井戸を掘削するのは簡単ではなく、街では共同の井戸が用いられることが多くありました。ですが、谷村城で発見された井戸の場合、谷村陣屋の敷地内につくられており、陣屋が井戸を所有していたものと思われます。これが意味するところは、おそらく、谷村陣屋の「権威づけ」にあったのではないでしょうか。水路からももちろん取水可能な環境であったにもかかわらず、浅くても石をならべて立派な井戸を造ることによって、谷村陣屋を訪れる人に権力を象徴させたかったのかもしれません。
まとめ―谷村城と水の歴史―谷村城(谷村陣屋)では、水にまつわる遺構が多く発見されました。これらは、単に生活する人々が水を利用した痕跡をあらわすというだけではなく、谷村城(谷村陣屋)における政治的な思惑まで想定することが可能なのではないでしょうか。石をていねいにならべた水路や井戸は、間接的ではありますがそうした歴史を語るものなのかもしれません。 谷村の街を歩くと、今でも豊富な水量のある水路(家中川)が流れています。家中川は、谷村城城主の秋元氏によって開削され、用水路として江戸時代から現代に至るまでさまざまにつかわれ、地域の発展に貢献してきました。近年では、この水路を活用して、小水力発電所が運用されています。谷村城の歴史は、水とともに生きた人々の歴史とも言えるかもしれませんね。
【参考文献】 望月秀和 2012 『甲府城下町遺跡Ⅵ―甲府駅周辺土地区画整理事業(舞鶴公園西通り線)に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書―』甲府市文化財調査報告57 御山亮済 2013 「井戸の構造をめぐる諸問題―山梨県内の事例を中心にして―」『山梨県考古学協会誌』第22号・特集水の考古学 山梨県考古学協会
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