トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0437万寿森古墳(前編)
ページID:72082更新日:2016年4月6日
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甲府市の遺跡(甲府城関連・曽根丘陵公園を除く)
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県指定史跡 万寿森古墳☆遺跡トピックスでは、甲府市に所在する「万寿森(まんじゅもり)古墳」の魅力を最大限にお伝えするため、「前編」「後編」の2部構成で万寿森古墳の特集をお送りしようと思います。今回は「前編」として、万寿森古墳のこれまでと、万寿森古墳の石室についてお伝えします。
◯万寿森古墳について
甲府市湯村(ゆむら)の温泉街から東の道に入ると、万寿森古墳という古墳に出会います。万寿森古墳は、古墳時代の後期前半、6世紀の前葉から中葉にかけて造られました(今から約1450~1500年前)。 万寿森古墳には、とても大きな横穴式石室(まいぶん用語集参照)が造られています。この石室は、山梨県内では3番目に大きく、江戸時代の書物『甲斐国志』に煙硝蔵(えんしょうぐら=火薬庫)として使われていたと書かれており、古くからその存在を知られていたことが分かります。その後、ホテルの倉庫として利用され、現在はその名残で石室の入り口に扉が取り付けられています。
このたび平成28年2月22日に、山梨県の史跡として指定を受けました。県内で、国・県の指定となった古墳は、万寿森古墳で12基目となります。
所在地 甲府市湯村三丁目 時 代 古墳時代後期(1450~1500年前) 参考文献 石神孝子 1998 「万寿森古墳」『山梨県史』資料編1 pp.536-537 平塚洋一 2011 「万寿森古墳」『甲府市内遺跡Ⅷ』 pp.179-187 2013 「万寿森古墳」『甲府市内遺跡Ⅸ』 pp.56-61 謎に包まれていた万寿森古墳横穴式石室は、本来遺骸(いがい)を葬るための施設です。そこには、葬られた人(=被葬者)にむけられた武器や装飾品などの副葬品が納められます。しかし、万寿森古墳の石室は、江戸時代から近現代に至るまで、本来とは違う用途で利用されていました。そのためか、石室の中に納められていた副葬品等で、今に伝わるものはありません。古墳が造られた時期や、埋葬された人がどんな人だったのかを考えるためには、情報が不足していました。 そんな中、万寿森古墳は平成18・19年度にかけて、甲府市教育委員会によって初めて部分的に発掘調査が実施されました。この調査では、万寿森古墳について2つの大きな発見がありました。1つ目に、古墳をめぐる周溝が地中から確認されました。今までは現状の大きさから推定するのみで、築造時の大きさは不明でしたが、直径およそ25mほどの円墳になるということがわかりました。2つめに、6世紀第2四半期(西暦で525~550年)以降の特徴をもつ須恵器の破片が周溝から出土しました。かねてより、横穴式石室の構造から、万寿森古墳の年代を6世紀前半代~中葉と考えられていましたが、こうした年代観を裏付けるものとなりました。
写真:万寿森古墳の外観 しっかりと墳丘の形を確認することが出来ます ”超”巨大な横穴式石室万寿森古墳は横穴式石室をもつ古墳です。誇張して“超”巨大な横穴式石室であることを補足しておきましょう。 万寿森古墳の石室は、石室の奥の壁から入り口までの長さが14.2m、遺骸が安置される「玄室(げんしつ)」と呼ばれる部屋の長さが7.9mとなっています。石室の四方の壁は、長辺が70~100cmくらいの大きさの扁平な石材を、6~7段積み上げています。この壁の高さは3m、場所によっては3.3mにもなり、人間が余裕で石室の中を移動することができます。石室の床平面の形は、「両袖式(りょうそでしき)」という用語が使われますが、これは≪通路である「羨道」から玄室に入ると、両側に広がっている≫ということを意味しています。 横穴式石室をもつ古墳は、6世紀以降になると日本全国でみられるようになり、特に6世紀後半以降には、各地で石室は巨大化します。巨大な横穴式石室として、7世紀代に造られた奈良県の石舞台古墳や、東日本では埼玉県の八幡山古墳などが有名ですね。また、欽明大王墓と考えられる奈良県の見瀬丸山古墳はなんと石室全長が28m以上となり、日本最長となっています。山梨県内でも6世紀後半になると、県指定史跡姥塚(うばづか)古墳(笛吹市)や万寿森古墳の近くに位置する県指定史跡加牟那塚(かむなづか)古墳(甲府市)には巨大な横穴式石室が造られています。
仮に万寿森古墳が6世紀第2四半期の時期に築造されたとすると、この時期では列島内で最大級の石室だったと考えられます。“超”巨大と誇張したのはそのためです。当時の列島の中心地である畿内(きない≒近畿)地域では、「片袖式」のいわゆる「畿内型石室」と呼ばれる定型化した(同じ趣向を示した)石室が、有力者層の古墳に拡がっていった時期にあたります。この段階では、巨大な横穴式石室は、まだ大王墓以外には採用されていなかったものと考えられます。 当時の人たちから見ると、万寿森古墳の石室がこれまでにない圧倒的な大きさだったことが想定されます。さらに、「両袖式」の石室が、畿内型石室として採用されるようになるのは6世紀後葉からであるため、石室の形自体も畿内とは異なるところから影響を受けていると考えられます。 さて、皆さんが何かモノを造るとき、ゼロから創り出すことよりも、あるモデルや設計図等を参考にしながら造ることがほとんどだと思います。横穴式石室を築造するときも、同じようにモデルを参考にしたと考えてよいでしょう。ではいったい、万寿森古墳の横穴式石室は、どこの地域にその源流を求めることができるのでしょうか?次回「後編」で考えていきたいと思います。 写真:石室の実測図(左が万寿森古墳、右が畿内型石室)
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