トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 遺跡トピックスNo.438万寿森古墳
ページID:72290更新日:2016年4月20日
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甲府市の遺跡(甲府城関連・曽根丘陵公園を除く)
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☆遺跡トピックスでは、甲府市に所在する「万寿森古墳(まんじゅもりこふん)」の魅力を最大限にお伝えするため、「前編」「後編」の2部構成でお送りしています。今回は「後編」として、万寿森古墳の石室の系譜(どこの地域から影響を受けて造られたのか)と、万寿森古墳の被葬者像から読み解く歴史的価値について、お伝えしていきます。 前編は…遺跡トピックス №0437 万寿森古墳~2016年2月指定の県史跡(前編)~(甲府市)
石室はどこの地域から影響を受けて造られたのか前編では、万寿森古墳の石室が、当時の日本列島の政治的中心であった畿内地域のものとは違う形(構造)であるとお伝えいたしました。では、万寿森古墳の横穴式石室は、いったいどこの地域にそのモデルを求められるのでしょうか。改めて万寿森古墳の石室の特徴を挙げると、次のようになります。
・石室の大きさに比べ比較的小さめの石を積み上げる ・床平面形は「両袖」となる ・天井部は玄室と羨道で段差を持たない
以上の特徴をもつ横穴式石室が、万寿森古墳に近い存在であると推測できます。
6世紀前半代に日本列島でみられる横穴式石室から、この特徴をもつ古墳を探してみると、長野県の伊那(いな)地域や群馬県でみつけることができます。その古墳の具体名は、群馬県の正円寺古墳や王山古墳、長野県の飯沼天神塚古墳などです。両地域は東山道で結ばれ、石室の類似性はすでに指摘されているところです。
この図は、これらの石室と、万寿森古墳の石室の実測図を同じ大きさで比較したものです。長野・群馬の石室は極めて細長い羨道部をもつなど、万寿森古墳に比べて微妙な違いは認められますが、現状ではこの東山道(とうざんどう)ルートから伝わってきたものと考えてよいでしょう(宮澤2004)。とはいえ、このような大きな石室を造る工事は、大変な労力を要したと考えられます。ではいったい、どんな人がこの石室に埋葬されていたのでしょうか。 万寿森古墳の被葬者像甲府盆地の南東側、曽根丘陵の尾根に沿って、大型で豪華な副葬品をもつ古墳が残されています。 なかでも、4世紀末頃築造された甲斐銚子塚古墳は、東日本でも最大級の前方後円墳として君臨しており、発掘調査の成果もあわせて「畿内的」な古墳と評価されています。山梨県の「首長墓」は、銚子塚古墳を代表として、古墳時代の初めからこの地域を中心にみられます。 一方で、万寿森古墳の周辺、甲府市湯村から甲斐市にかけての地域で、古墳時代前期や中期に築造されたと考えられる大型墳墓は、現在のところ確実なものはありません。唯一、羽黒山山頂(はぐろやまさんちょう)古墳という積石塚が、5世紀代に遡る可能性を指摘されていますが、現状では築造年代を確定することはできません。「大型墳墓が存在しない=地域の有力者がいない」という証明をすることは出来ませんが、曽根丘陵の古墳群に比較すると、勢力は弱かったと想定されます。 それでは改めて、万寿森古墳の被葬者はどんな人だったのか、この謎に挑戦してみましょう。これまで述べてきたように、万寿森古墳は当時において超巨大な横穴式石室で、その造りは畿内のものではなく、長野や群馬でみられる一部の石室の流れを汲んでいます。また、代々首長墓が造られてきた曽根丘陵周辺からは離れ、いわば盆地を隔てて対岸の土地を選んでいます。さらに、1kmほど離れた甲府市千塚では、万寿森古墳が築造された後1世代ほど置いて、加牟那塚(かむなづか)古墳が造られますが、この石室は片袖式ではあるものの、天井部に段をもたないなどの、万寿森古墳の特徴を引き継いでいると考えられます。加牟那塚古墳周辺の地名が「千塚(ちづか)」というように、この辺り一帯にかつては大規模な群集墳があり、それらの先駆けとして万寿森古墳が位置づけられます。千塚周辺には榎田(えのきだ)遺跡などの集落遺跡もあり、お墓だけではなくて、居住地も周辺にあったものと思われます。 これらのことから、万寿森古墳の被葬者像を考えてみると、①東山道ルートを重視したが、②畿内勢力との直接的な結びつきは弱い、③山梨に新たな風をもたらした豪族の長、である可能性が高いと思われます。 それでも続く万寿森古墳の謎6世紀から7世紀にかけて、山梨県では、万寿森古墳を先駆けとした盆地北西部(湯村から甲斐市の赤坂台地にかけて)の地域と、姥塚古墳に代表される盆地東部(笛吹市一宮~御坂周辺)の地域において、それぞれ大規模な群集墳が造られます。とくに、万寿森古墳のあとに出現する加牟那塚古墳と、盆地南東部の姥塚古墳は、ほぼ同時期に造られたと考えられる巨大石室墳です。両者はあたかも競い合うごとく存在しています。 また、万寿森古墳には、埴輪の存在が知られていません。発掘調査の際にも埴輪の出土は見られないことから、おそらく樹立していなかったものと考えられます。一般的に、全ての古墳に埴輪が立てられていたわけではありませんが、多くの有力首長墓で埴輪が見つかっているのは事実です。これは山梨県の他の古墳にも言えることであり、あわせて検討していかなければならない課題です。ちなみに、加牟那塚古墳からは、埴輪が見つかっています。 さらに、万寿森古墳の出現を考える上で、今後も要検討の集落遺跡があります。古墳から南へいった甲府市塩部(しおべ)に、塩部遺跡という弥生時代から古墳・奈良・平安時代にかけて連綿と続いた集落が存在します。この遺跡からは、畿内の技法で作られた土器や、方形周溝墓から4世紀代のウマの歯がみつかっており、山梨のなかでも特殊な集落遺跡と評価することが出来ます。塩部遺跡には、古墳時代中期頃にも人が生活していた痕跡が残っていますが、ここに住んでいた人々と万寿森古墳に葬られた人は、一体どんな関係だったのでしょうか。 こうした「謎」を含めて、万寿森古墳は魅力的な史跡であると言えるでしょう。 巨大石室の内部以上、2部編成に渡り、万寿森古墳の魅力をお伝えして参りました。さて、どうですか?石室の中に入ってみたくなりませんか?(笑) 万寿森古墳は、普段は扉が閉まっておりますが、イベント等の際に横穴式石室の中に入ることが可能です。最近では、昨年12月13日に行われた「積石塚・渡来人研究会」設立を記念したエクスカーションとして、石室の中に入る機会がありました。 最後にそのときの写真を載せたいと思います。
<参考文献>
宮澤公雄 2004 「古墳と古代の交流路」『山梨考古学論集Ⅴ』山梨県考古学協会25周年記念論集 pp.99-113 山梨県考古学協会
☆万寿森古墳が造られた年代はあくまで現状での想定であり、また湯村周辺では未調査の古墳も多くあります。今後の調査等によって、周辺で万寿森古墳よりも古い時期に造られた古墳が発見される可能性も十分にあることを補足しておきます。
写真:万寿森古墳に集まる参加者たち 写真:いざ石室へ!ライトをつけないと真っ暗!
写真:玄室のなか 天井が広い! 写真:石の積み方を観察中
写真:石室の奥から入り口をみる 死者からの視点?
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