トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 遺跡トピックスNo.453火雨塚古墳
ページID:76015更新日:2016年11月24日
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韮崎市の遺跡0073苗敷山山頂遺跡-穂見神社0107大輪寺東遺跡-甘利氏館跡0453火雨塚古墳―藤井平に現れた豪族の墓―
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火雨塚古墳・藤井平について火雨塚古墳は、韮崎市藤井町北下條にある古墳です。 古墳は東京エレクトロン韮崎文化ホールの道路を挟んで南側の駐車場に保存されています。 火雨塚古墳の位置する藤井平は、七里岩の東側と塩川に挟まれた場所で、塩川の氾濫によって肥えた土壌ができあがり、古来より有数の穀倉地帯となっています。現在は一見平坦に見えますが、地中には微高地が埋まっており、微高地上に遺跡が多く残されています。 所在地 韮崎市藤井町北下條 時 代 古墳時代後期(1450~1500年前) 写真:韮崎文化ホール南側駐車場の中央に古墳はあります。 火雨塚古墳に残る言い伝え「火雨塚」という特徴的な古墳の名前ですが、この名前について、地元に言い伝えられていることがあるそうです。それは、かつて富士山が大爆発したときに、爆発によって降り注ぐ「火の雨」を避けるために造られた石室のひとつであったというものです。 写真:秋晴れ(快晴!)の日に撮影(北方向から) ちょっと霞んでますが、南東の方向には富士山が見えますね
写真をみて分かるとおり、富士山までは相当遠いという事が分かります。さすがに火山弾などがここまで飛んでくる・・・ということはなさそうですが、昔の人が噴火の様子を見たり、火山灰が降ってくるのを体感したりして、言い伝えを残したのかもしれません。
写真:先ほどのアングルから反対を撮ると・・・八ヶ岳がきれいに見えます!
火雨塚古墳を観察しよう現在、火雨塚古墳は、韮崎文化ホールの駐車場にあって、だれでも見学が出来る状態です。 さて、ほかの古墳を見たことがある人は、上の写真をみて、「?」と思うかもしれません。古墳といえば、土が盛られているまんじゅうのような形をイメージするかと思います。ですが、火雨塚古墳は石がゴロゴロとしているだけです。 実は、このゴロゴロした石は、遺骸を埋葬するための古墳の部屋(=横穴式石室)がみえているのです。横穴式石室をおおっていた土は、1000年以上の時が経って、まわりが田んぼになるにつれて、失われていったのだと思います。 古墳の形については、韮崎市教育委員会が周溝(古墳のまわりの堀)部分で試掘調査をし、直径約16mの円形の古墳になることが想定されています(上の写真の緑で囲った範囲)。
古墳に近づいてみました。上の写真をみてください。古墳の上には、石がたくさんみられます。なかでも、手前の巨大な石は、2mくらいあると思われます。では、この巨大な石は、いったい古墳のどこに使われていたのでしょうか? 古墳を盛る土の中に、巨大な石を混ぜ込んだとは思えませんよね。おそらく、古墳の横穴式石室の、天井の石として使っていたものでしょう。本来、横穴式石室は、大きな天井石を上からかぶせることによって、石室の形を保っているのですが、残念ながら本古墳では崩れてしまったようです。 目を凝らせば横穴式石室の形がわかるまた正面に戻って、じっくり古墳を見てみましょう。 よくよく古墳を見てみると、必ずしも全ての石が崩れているわけではないということに気づきます。 古墳が造られていた当時の姿を、手がかりから想像することが出来ます。 ↓ ↓ ↓ 先ほどの写真に線を入れてみました。石の平らな面を向かって左側にむけて、4つほど大きな石が並んでいることが分かります。おそらく、横穴式石室の壁の一番底の部分であると考えられます。
横からも見てみましょう。 やはり並んでいるのが分かるかと思います。 反対側の壁の石列は、現状では確認できませんが、ひょっとしたら残っているのかもしれません。 火雨塚古墳の横穴式石室は、大きな石を壁材として使っており、石室も大きくなることが想定されることから、6世紀の後半から7世紀前半にかけて造られたと考えられます。 中近世の利用ところで古墳の上には、大きな石のほかにも小さな石がたくさん置かれ、頂上には小さな”ほこら”が置かれています。 このほこらの裏側をじっくり見てみると、川原でとれるような丸い石がたくさん積まれているのが分かります。この様子をみると、中世や近世以降に火雨塚古墳が信仰の対象となり、さらに石を積んで「石塚」として祀ったのではないかと考えられます。 藤井平の古代集落と火雨塚古墳写真:七里岩上段(平和観音)から藤井平を臨む。奥に見えるのは茅ヶ岳。
冒頭触れたとおり、藤井平には、古代より人々が生活していた痕跡が残っています。 縄文時代まで遡ると、山影遺跡などの低地の遺跡もありますが、多くの人々は坂井遺跡などの七里岩の段丘上に住んでいたようです。 弥生時代になると、人々は藤井平の低地に住むようになっていきます。藤井平は塩川の氾濫原でこそあったものの、そのおかげで肥えた土壌となり、水田耕作にはもってこいの場所だったのです。 弥生時代以降は連綿と集落遺跡が藤井平につくられています。近年、周辺で開発事業が多くなったことで、記録保存目的の発掘調査が進み、その様相がわかり始めています。 図:火雨塚古墳周辺の集落遺跡
火雨塚古墳も、実は、三宮地遺跡という、平安時代の集落遺跡の中に位置しています。 火雨塚古墳が造られた、古墳時代後期(6世紀~7世紀)の集落遺跡は、古墳から500mほど東にいったところで見つかっており、上横屋遺跡や、後田第2遺跡、後田堂ノ前遺跡などの名前がついています。 火雨塚古墳に埋められた人は、この地域を治めていた人(一族)であると推測できます。 火雨塚古墳の歴史的意義藤井平では、古墳を造っていた時代が終わると、奈良・平安時代の大集落が出現します。なかでも宮ノ前遺跡は、韮崎市教育委員会によって発掘調査が行われ、400軒以上の竪穴建物、50軒以上の掘立柱建物の跡が見つかっています。この成果から、古代の「巨麻郡」の郡衙の一部とも考えられています。 私見ですが、火雨塚古墳に埋葬された人(一族)は、奈良・平安時代の藤井平の発展に一役買ったのではないか、と思われます。
さて、もう一度ここで火雨塚古墳に伝わる伝承について振り返ってみましょう。 火雨塚は、富士山の「火の雨」から守る石室の「ひとつ」であったと伝えられているようです。他の地域の事例から見ても、古墳時代後期に単独で古墳が存在していたとは、なかなか考えにくいです。実際は、いくつかの古墳が群集していたと考えた方が良さそうです。 いつの間にか、火雨塚古墳だけ取り残されてしまったのではないでしょうか。今後、周辺の発掘調査によって、火雨塚古墳の仲間の古墳が発見されることがあるかもしれません。
韮崎文化ホールに訪れた際は、ぜひ一度見学してみてください。
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