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更新日:2019年2月22日
山梨のジュエリー産業は、金峰山(奥秩父の主脈に属する山の一つで秩父多摩甲斐国立公0園に属する。標高2,599m)一帯を中心とする地域から産出する水晶をきっかけに誕生し、発展を遂げてきました。山梨で「ジュエリー産業」というと「研磨宝飾産業」のことを意味します。それは「水晶工芸=水晶研磨」と「貴金属工芸(宝飾=錺(かざ)り)」の2つの流れから発展してきた歴史があるためです。その歴史はともに江戸時代末期に遡ることができます。当時はそれぞれが別々の仕事として行われていましたが、明治中期の装身具生産の過程において、2つの産業が結びついたことにより、市場性の高い完全な製品づくりができるようになりました。
明治後期から大正初期にかけて水晶の研磨加工は機械化・電化により手磨りから円盤磨りへと変化し、新研磨剤の炭化ケイ素の使用によって量産の基盤が確立されていきます。甲府の錺りも、大正初期には貴金属を材料とした高級装身具づくりのいわゆる貴金属工芸へと移り始め、設備を機械化して量産する業者も現れました。また、枯渇していた山梨産水晶に代わって、その頃からブラジル産水晶が大量に輸入されるようになります。同一規格品の量産が可能になったことで、国内の販路拡張と共に、水晶細工や水晶首飾りのアメリカへの輸出、中国大陸への出張販売などにより研磨宝飾品の産地としての基盤が形成され、「水晶の山梨」として全国に知られるようになりました。
昭和に入り、戦争がはじまると、研磨宝飾業者は水晶発振子、光学レンズ、絶縁体等の軍需研磨品の生産体制へと組み込まれていきました。こうした中、昭和15年の「奢侈品等製造販売制限規則」が産業に大きな打撃を与えます。戦争が続く中、研磨宝飾業者の転廃業など業界の再編成が進み、昭和20年、甲府市は全市の80%が焦土と化すほどの空襲を受け、伝統を誇ってきた研磨宝飾産業は壊滅的な被害を受けます。その復活には、戦後に進駐軍の兵士たちが首飾り、イヤリング、指輪、水晶細工などをみやげ品として大量に購入したことが、大きく寄与しました。
戦時中の装飾への抑圧への反動もあり、戦後の研磨宝飾品の需要は増大し、進駐軍ブームが去った後、国内向けの本格的な生産が始まりました。昭和30年代には、真鍮、模造金、銀などの素材に、半貴石、合成宝石、ガラス飾石をあしらった身辺装飾品を中心に、室内装飾品、また工業用品など多様な品種が量産されるようになりました。高度経済成長期を迎え、国民の生活が安定し、消費に目が向くようになると、国民の装身具に対する嗜好は次第に高級品へと移行します。ダイヤモンドをはじめとする、各種色石類にイエローゴールド、ホワイトゴールド、プラチナなどの素材を使用した中級、高級製品の加工に取り組むようになり、宝飾品の高級化、多様化を求める市場の需要に対応していきます。
昭和48年の金地金・金製品の輸入の自由化により、海外の優れた金製品のデザインや加工技術から、大きな影響を受けました。同時に、プラチナ中心の白色系にゴールドが加わったことで、種類豊富なジュエリーが制作されるようになりました。山梨がジュエリーの産地として、広く認識されていく中で、研磨宝飾産業のさらなる発展と人材育成を目的に、昭和56年に「山梨県立宝石美術専門学校」が開校し、産業を支える新しい世代が育成され、多くの卒業生が県内外の宝飾業界で活躍するようになります。昭和61年頃からバブル経済期を迎えると、ジュエリーは花形商品となり、山梨の研磨宝飾産業も拡大、発展しました。しかし、バブル崩壊後は、一転してジュエリー市場は縮小、低迷期を迎え、生産地としての山梨にも苦しい時期が長く続きます。
現在でも、山梨は日本有数のジュエリー産地ですが、国内のジュエリーのマーケット規模は縮小傾向にあり、それに伴い山梨産ジュエリーの生産高も減少しています。更に、海外ブランドの輸入、アジアの近隣諸国の台頭、既存の販売ルートの衰退などの課題も抱えています。この状況改善のために、国際競争力を持つ産業構造への転換を図ろうと、これまでの山梨の研磨宝飾の伝統技術を活かしたもの作りに加え、山梨ジュエリーのブランド化に取り組むなど、グローバル市場に対応した生産地としての新たな試みを始めています。