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遺跡トピックスNo.0193県指定史跡~徳川家康側室養珠院墓所~
身延町の遺跡
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県内最大級の宝篋印塔~大野山本遠寺~
〈大野山本遠寺[おおのさんほんのんじ]の沿革〉
養珠院が眠る大野山本遠寺は、日蓮宗の由緒寺院(本山)の1ヶ寺で、南巨摩郡身延町大野に所在しています。
開山は身延山第二十二世日遠[にちおん]上人が慶長十四(1609)年に庵を建てたことが始まりとされています。
正保三(1646)年には徳川幕府から朱印高二百六十石余りの寺領や、山号と寺号の公称を賜るなど、開山日遠上人に養珠院お万の方が深く師事していたことによるものと考えられます。
本遠寺に関しては、養珠院の長男である紀州藩主徳川頼宣[とくがわよりのぶ]らにより、本堂や鐘楼堂が建立され、その後、堂宇の造営、改修がなされました。
しかし、慶応三(1867)年三月には、出火により本堂や鐘楼堂を除く境内の堂宇のほとんどを焼失してしまい、再建されるなど現在に至りますが、被災を免れた本堂や鐘楼堂は昭和61年1月に国の重要文化財に指定され、平成14年から、半解体修理が進められ、平成20年度には終了し、建設当時の姿を偲ばせています。
火災を免れ、半解体修理が行われた本遠寺本堂(右)と鐘楼堂(左)
○本堂:間口5間、奥行7間の入母屋造。
○鐘楼堂:桁行3間、梁間2間の入母屋造。
紀州徳川家の寄進による江戸時代初期の貴重な建築物。解体修理により建築当時の桧皮葺の荘厳な姿が蘇りました。
そんな本堂を見守るかのように、養珠院の墓所は本堂脇の山の中腹にあります。
養珠院お万の方は、文禄二(1593)年の17才の時に徳川家康の側室となり、慶長七(1602)年に紀州藩主徳川頼宣、翌年には水戸藩主徳川頼房を生み、元和二(1616)年に徳川家康の没後、髪を下ろして、「養珠院」と称しました。
法華信仰に篤く身延山久遠寺、大野山本遠寺などの多くの諸寺の外護を尽くし、法華信仰の発展の礎をつくりました。
承応二(1653)年に養珠院が没すると遺言により、大野山本遠寺で荼毘[だび]に付され、埋葬されました。翌、承応三(1654)年に徳川頼宣が母の供養のために、壮大な宝篋印塔を建立したとされます。
この宝篋印塔は、花崗岩製で、高さ4.55m、下部基壇は3.94mを測り、現在でも欠損部位はなく、保存状態は良好です。
周りの玉垣や石門(高さ2.73m、間口2.13m)などは、一枚岩を刳りぬいたり加工する等、当時の最上級の技術や部材により造り出され、徳川家の盛時を偲ばせるものです。
その姿は壮麗にして県内まれに見る壮大なもので、見るものを圧倒します。
また、墓所周辺には、徳川家寄進の灯籠や石塔群、石垣なども見られます。
このように、養珠院の墓所の宝篋印塔をはじめ、墓域、寺域内の石垣や石塔群も良好にまとまっており、近世の墓制、葬制を物語る希少な資料であります。
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