トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 遺跡トピックスNo.0324廻り田遺跡B区(まわりたいせき)【山梨市】
ページID:40993更新日:2017年5月9日
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廻り田遺跡B区は、以前に紹介した上コブケ遺跡(かみこぶけいせき)A,B,C区と同じく、西関東連絡道路建設(山梨県甲府市から埼玉県深谷市に至る約110km)に伴い、山梨県埋蔵文化財センターが平成22年度の試掘調査で新たな遺跡を確認し、平成23年9月から11月まで発掘調査を実施しました。 廻り田遺跡B区のすぐ横には弟川が流れており、遺跡周辺にはフルーツ公園や万力公園、建物群が国指定・県指定の重要文化財になっている大井俣窪八幡神社(おおいまたくぼはちまんじんじゃ)や、ナウマンゾウの臼歯や骨などが発見された兄川河床遺跡(あにがわかしょういせき)があります。 上コブケ遺跡の関連トピックス 廻り田遺跡B区の水に関連する遺構廻り田遺跡からは、同じ水に関連する遺構なのですが、2つの性格の違う遺構が検出されました。 1つ目は、自然の影響を受けた旧河道(きゅうかどう)です。旧河道とは、昔の河の跡です。昔の河は護岸工事などがされていなかったために、大雨などによる影響で河の流れが変わりました。
左右の写真から旧河道の幅が約4.5m、深さ約0.9mほどあることがわかります。 薄い層や厚い層がありますね。 右の写真は、土の色や質、土に含まれているものの違いで線を引いたものです。発掘調査ではこのような土の違いを観察して、堆積(土の重なり方)を記録します。 この旧河道の1番下からは磨滅した縄文土器が数点見つかりました。 2つ目は、水場の近くで行われた祭祀行為(さいしこうい。=お祭り)の跡です。 調査をしている時に、土の色が違う所から遺物(いぶつ。=昔の道具、またはその破片)が特に集中している範囲が見つかったので、掘ってみると溝は浅いのですが遺物がたくさん出てきました。現場で2号溝と名前がついた(2番目に見つかった溝状遺構)のですが、この2号溝は、北へ向かって掘っても掘っても土器片が出てきます。
左の写真は小さな遺物をビニール袋に入れて、出土した地点を記録して取り上げている所です。 右の写真で、ついにベルトコンベアを越えて北の区画まで2号溝が伸びました。溝の両端までブルーシートをめくり、溝の幅をわかりやすいようにした写真です。
こちらは前の写真と逆方向から撮った写真です。一部深い所からも土師器(はじき。=素焼きの土器)の甕(かめ。=貯蔵用の土師器)や高坏(たかつき。=脚付きのお皿)の破片が見つかりました。 右の写真から男性の足元の深さまで土器片があるのがわかるでしょうか? 土器が集中しているので、作業員さんたちも慎重にお掃除をしています。 2号溝の時期と性格次の写真は2号溝を北西から南東方向へ撮った写真です。 2号溝はおよそ最大長35m、最大幅5m、調査区を南東から北西へ伸びており、調査区の外にも2号溝は続きます。 この2号溝だけで遺物が約700点も集中的に出土しており、その土器片を観察すると、古墳時代前期(今から約1700年前)のものと思われます。 これから整理作業を行うので正確なことはまだ言えませんが、現場で見た感じだと高坏の破片が多かったような印象があります。 高坏はよく祭祀や儀礼(ぎれい)に使われ、古墳(権力者のお墓)からも見つかり、葬送儀礼(そうそうぎれい。=埋葬者を送るために、生きている人たちが行う)に使用されたものと考えられています。なぜか祭祀や儀礼の後には、使った土器を壊すようで高坏はほとんど壊れた状態で見つかります。 河から遺跡内の溝へと流されているうちに壊れた可能性はどうでしょうか? もちろん、その可能性もあります。 でも次の写真の遺物が出てきて、上流から運ばれたのではなくて、この場所で人が土師器の高坏や甕を壊す祭祀行為が行われたという可能性が高くなりました。
約13cmほどの平底片口の小型短頸壷(底が平らで液体を注ぐような口縁をもつ小さなつぼ)が、ちゃんと地面に立つように出土したからです。 水辺で当時の人たちは、どのような思いで祭祀行為をしたのでしょうか。 洪水など自然に対する恐れでしょうか? それとも、自然に対する感謝でしょうか? |