トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0342甲府城下町遺跡
ページID:45198更新日:2016年2月25日
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甲府城下町の遺跡 |
甲府城下町遺跡(日向町遺跡第2地点)の概要甲府城下町遺跡の位置するJR甲府駅北口一帯は、中世戦国期の武田信虎・信玄・勝頼親子三代の時代には、躑躅ヶ崎館(国史跡武田氏館跡)を中心に開かれた『武田城下町』として、また近世には県指定史跡甲府城の城下に展開した『甲府城下町』となり、幕末まで武家の屋敷地として利用されてきました。
和傘の歴史【写真1:傘の部品(手元ロクロ)】 【図1:傘の部分名称】
傘は魔除などの目的で、貴人に差しかける天蓋(開閉できない傘)として古代中国で発明され、飛鳥時代に百済を経由して日本に入ってきました。平安時代になると和紙製造の技術の向上もあり、竹細工を取り入れて改良された傘になり、さらに室町時代になると、和紙に油を塗って防水性を施して、雨傘としても使われるようになりました。和傘が広く一般的に普及したのは江戸時代になってからと言われています。明治に入ると、急速な洋傘の普及により、和傘を使う人もほとんどいなくなりました。現在では歌舞伎や時代劇などで使われているほか、固定して使う野天用や、和菓子屋や旅館の店先で、日よけとして使われている程度になってしまいました。 甲府城下町遺跡からは、写真1に見られるように中が空洞の円筒形で高さ4.9cm、最大幅5.7cmほどのもので、和傘の手元ロクロ(図1)と言われる部分が出土しています。
江戸時代までは、生活に必要な物は何でも手作りで材料も限られ、大量生産技術が今ほど進んでいなかったので、物を大切に使うことは当然のことでした。壊れても何度でも修理して、何でも再利用しました。“傘の古骨買い”(図2)の商売もその一つで、壊れた傘を買い取って、使用に耐える竹は骨として新しい傘の一部とし、油紙は味噌・魚などを包む包装紙として再利用されました。 【図2:傘の古骨買い『守貞漫稿』より】 |