トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > No.447鰍沢河岸跡出土の木樋(富士川町)
ページID:74776更新日:2017年5月30日
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鰍沢河岸の遺跡トピックス
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調査区遠景
鰍沢河岸跡は、山梨県南巨摩郡富士川町にあります。鰍沢河岸は江戸時代、富士川水運の河港として青柳河岸(南巨摩郡富士川町)、黒沢河岸(西八代郡市川三郷町)とともに甲州三河岸と呼ばれ、水運の拠点であり、物流の中継地点として繁栄しました。 今回紹介する木樋は、鰍沢河岸跡の中で家屋が密集し、河岸問屋や舟宿が立ち並んでいた場所から出土しました。 所在地山梨県富士川町(鰍沢町)1374-5外 時代近世・近代 調査機関山梨県埋蔵文化財センター 報告書山梨県埋蔵文化財センター調査報告書 第148集1998年刊行 第224集2005年刊行 第238集2006年刊行 第245集2007年刊行 第254集2008年刊行
木樋とは、現在で言う水道管のことで、井戸や溜め池に水を通していました。鰍沢河岸跡から出土した木樋は、道路脇からみつかりました。木樋の断面は、凹型をしていて、底部が一枚板、長さ3m39cm、幅24.5cm、厚さ1.5cmとなっています。また左右両辺に同様の厚さの板が角釘で打ち付けられていましたが、高さが5cm程で上部はなくなっていました。木樋全体の残りが少なく樋の先端がどこにつながっているかは、わかりませんでした。 付近からは竹でできた樋「竹樋」も出土しています。長さ3mほどの竹樋が2本うめられ、2本は木製の継手でつながっていたと思われます。この竹樋も両端はくさってなくなっていて、どこにつながっていたものなのかは不明です。この竹樋については、鰍沢河岸跡でおきた文政大火(文政4年(1821))で焼かれた土を掘ってつくられているため、それ以降につくられたもの、あるいは修理のために掘り返して使っていたと考えると文政大火の時よりも古くなる可能性もあります。 江戸の遺跡では、上水の本線から屋敷内に引き込むための施設として竹樋が用いられていた例があります。道路があり、屋敷との境の石垣の横に木樋と竹樋が敷かれていることから、この付近の屋敷への水を運んでいた遺構と考えられます。 木樋、竹樋がみつかったことによって、鰍沢河岸に住む人々がこの樋を使って水をくみ、生活としていたことがわかりました。鰍沢河岸の街並みがわかります。
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