トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > No.537ー下曽根橋を渡る時
ページID:111325更新日:2023年12月8日
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下曽根橋を埋蔵文化財センターに向かって渡ると、笛南中学校の体育館の向こう側に銚子塚古墳が見えます。4世紀に造られた古墳が21世紀の景色の中にあり、
「なんか、いいなあ。」
このことに気が付いたのは、私が埋蔵文化財センターに勤めるようになった今年の4月のことです。それまで何度も通っていたのに、全く気が付きませんでした。
実際に銚子塚古墳の上に立ってみて、改めてその高さに驚きました。甲府盆地が一望できます。後円部の高さは15mあり、竪穴住居に暮らしていた当時の人々の目にこの古墳はどれほど大きく映ったことでしょう。
この古墳の石室から発見された副葬品の一つに“車輪石”があります。車輪石は貝で作られた腕輪を模して石で作られた腕輪型の石製品です。貝を模した石の腕輪と聞いて、海のない山梨らしい出土品だと思いました。でも、全国の様々な古墳から車輪石は見つかっています。ということは、銚子塚古墳に埋葬された人々は、この辺りではちょっと有力というレベルではなく、他の地域とのつながりを持つくらい有力だったと思われます。
そう思って下曽根橋を渡ると、ちょっと誇らしい気持ちになりました。
下曽根橋から見える銚子塚古墳。後円部の高い部分がよく見えます。
銚子塚古墳全景 手前の前方部と後円部では高さが違うんですね。
私は昨年度まで中学校で社会科を教えていました。ですから、歴史の教科書に必ずといっていいほど載っている、三内丸山遺跡と吉野ヶ里遺跡を私は思い浮かべました。何度も授業に登場した遺跡ですし、テストに出題したこともあります。たくさんの人が一度は耳にしたことのある遺跡だと思います。
中学校の歴史学習の大きな目標の一つは、日本の歴史の大きな流れを各時代の特徴を踏まえて理解していくことです。ですから、全国の中学生が教科書に載っている遺跡を通して縄文時代や弥生時代について学ぶ、ということになります。三内丸山遺跡や吉野ヶ里遺跡などの教科書に載っている遺跡は、その時代の特徴を広く後世に伝える役割を担っているといえるでしょう。
では、銚子塚古墳のような教科書に載らない遺跡にはどんな役割があるのでしょうか。
私は今、二又第1遺跡を発掘しています。遺跡の発掘調査は地道な作業です。人の手によって土が掘られていく中で、土器などの遺物や建物の跡などの遺構が発見されていきます。すり鉢やかわらけなどの土器が出てきたり、濠の中から井戸が現れたり、初めて遺跡の発掘調査に関わる私にとっては驚きと苦労の毎日です。柱の跡やお墓などの遺構・遺物を目にすると、当時の人々の生活が具体的に私の中に入ってくるような気持ちになると同時に、当時のことをもっと知りたいという思いにもなります。こうした発掘調査の積み重ねによって、今、中央市の成島や中楯と呼ばれている地域がどのように成り立ってきたのか、約600年前の人々がどんな暮らしをしていたのか、そこにどんな景色が広がっていたのか、というようなことなどが少しずつ明らかになるわけです。
教科書に載っている遺跡に負けない、素晴らしい遺跡が山梨にもたくさんあります。そのことを多くの人に知ってもらい見てもらうことも価値のあることですが、今そこに暮らす人々が地域の歴史に目を向け、この地域の成り立ちに興味をもったり、生活の中で歴史的な景観に喜びを感じたりすることもまた、価値あることではないかと思います。地域の名前一つとってもそこには歴史があるはずです。
リニア新幹線や環状線の建設によって、山梨の景観も人々の暮らしも大きく変化することでしょう。変化のスピードが速くなっている今だからこそ、その地域で発掘された遺跡が果たす役割は大きいと思うのです。学校で学ぶ歴史は、歴史学習のほんの入口に過ぎません。そこから地域の歴史を知ることへと歩む道標となることこそが、それぞれの地域で発掘された遺跡の果たす役割であり、そこに目を向けるきっかけをつくることが、今の私にできることではないか、と埋蔵文化財センターに勤めるようになって考えるようになりました。
実際、この『遺跡トピックス』もそうですし、現在、山梨県立考古博物館で行われている企画展「発掘された日本列島展2023」、公園や遊歩道などにある地域の歴史を記した看板など、発掘調査の成果は道標となって私たちのすぐそばにあります。歴史の一端を知るだけで景色の見え方は変わります。下曽根橋を渡る私のように、地域の歴史を日常の中で感じながら、読者のみなさんそれぞれの「なんか、いいなあ。」が見つかることを願っています。
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