トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > No.538二本柳遺跡ー農作業中に埋まった水田?
ページID:111858更新日:2024年1月10日
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二本柳遺跡は、南アルプス市十日市場(当時は中巨摩郡若草町)の遺跡です。
1991年から1992年に、一般国道52号改築工事と中部横断自動車道路建設工事に先だって調査が行われました。弥生時代から江戸時代にかけての、集落跡や水田の跡が見つかっています。このように、一つの遺跡の中で複数の時期で人の生活の痕跡が見つかった遺跡を「複合遺跡」と呼びます。
さて、そんな複合遺跡の二本柳遺跡。今回は、そこで見つかった水田に着目してみたいと思います。
発掘調査で水田が見つかったということは、水田が土の中に埋まった、ということです。皆さんはどのような状況が思いつくでしょうか。稲刈り直前に水害にみまわれた、耕作放棄地になった後忘れ去られ…など、それぞれの状況で、土の中への埋まり方も変わってきそうですよね。
二本柳遺跡で見つかった水田は、平安~鎌倉時代のもの、室町~戦国時代のもの、江戸時代のものがあります。水田の面は洪水の砂の層に覆われており、洪水被害とその復旧の痕跡を見ることができます。この中で注目すべきは、二本柳遺跡において農作業中に埋まったと考えられる水田の跡が見つかっていることです。
農作業の跡が見つかったのは3区上層で見つかった室町時代の水田です。残された足跡の中には砂が溜まっており、人の足跡が西から東、東から西に蛇行して歩いた様子、そして直行するように南北に歩いた様子が明らかとなりました。
———つまり。田んぼで、ジグザグと四方に歩く……?
あくまで発掘調査で見つかったのは足跡だけのため、実際のところどんな作業をしていたかの特定は困難です。しかしながら似た足跡をのこす可能性がある工程として、「代掻き(水を張った水田上で、土を混ぜて表面を平らにする)」というものがあげられます。
代掻きは田植え直前に行われるものであり、現在ではトラクターを用いて行われることが一般的です。中世では牛馬に馬鍬(まぐわ)を牽かせる場合と、人力で鍬を用いて行う場合とがありました。二本柳遺跡は緩やかな扇状地上に立地しており、条里制と自然地形両者を取り入れた土地割がなされています。水田1枚1枚の区画も広くはなく、人の手で代掻きを行っても問題が無かったとも考えられます。
代掻き後、今から田植えをするという段階で水田が使えなくなってしまったのだとしたら……考えるとゾッとしますね。
ちなみに、同じ面からは鋤をつかった跡も。こちらも発掘された農作業の痕跡です。
前段で、条里制と自然地形両者を取り入れた、と述べましたがこれは一体どういうことでしょうか。
(条里制についての遺跡トピックスはこちら!No.356石橋条里制遺構-古代の土地区画整理)
平安時代後半から鎌倉時代に形成された条里制。条里制ではおよそ109mを1町とし、水田では1町を基準として畔などで土地割がなされます。二本柳遺跡で見つかった平安~鎌倉時代の水田では、東西や南北の軸を意識された畔が造られていたようです。
時代を下り、室町~戦国時代の水田の面。大きな畔は以前の水田に合わせる、つまり条里制に従う様子が見られました。しかしながら、その中でさらに水田を分ける畔は条里制を無視し、自然地形に合わせて多角形に水田を分割するようになります。
度重なる洪水の度復旧に追われ、結果として少しずつ水田の形が変化していく。農民たちの苦労が垣間見えます。
1年の中で、様々な表情を見せる水田。畑として二毛作、三毛作を行うならさらに多様な表情を見せるでしょう。
田植えや稲刈りがよくイメージされますが、「米」の漢字の通り、八十八の手間がかかるとされています。水の災害が多かった山梨県。復旧して復旧して使わなくなって——。水田の調査を通じて、水田が埋まった事情や、当時の米作り事情、ひいては社会事情など、様々なことが今後明らかになるかもしれません。
田んぼを見るときは、「今埋まったらどんな跡がつくかな…」なんてことを考えながら過ごすと面白いかもしれませんね。
人がいるとサイズ感がよく分かる。今の水田より小さく感じるかもしれません。
関連報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告第183集「二本柳遺跡」2000年
参考文献:木村茂光2010『日本農業史』吉川弘文館
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