ページID:4715更新日:2023年12月5日
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本川は、甲府盆地の東部に位置し、その源を大菩薩嶺(2,056.9m)に発し、甲州市大和町、勝沼町、笛吹市一宮町を流下して笛吹川(富士川支川)に注ぐ、流量延長27.0km、流域面積108.3km2の一級河川である。流域の上流部を閉める花崗閃緑岩は、一般に粗粒の構造を有し、風化に伴う崩壊が多い。また、中流部の瀬戸川層群は主として粘板岩、頁岩層よりなり、浸食、崩壊が多く見られる。
日川は以前から氾濫し周辺に被害を生じていたが、明治40年、史上最大といわれた大水害が発生し、当時県下屈指の富裕村であった日川村は、一朝にして一面砂礫の地となった。これをうけ、明治44年より、内務省東京土木出張所の直轄として、砂防工事に着手した。
勝沼堰堤は、大正4年から大正6年にかけ、内務省直轄砂防事業として、山梨県甲州市勝沼町岩崎地先に設置されたものである。
本堰堤は、日本で最初にコンクリートを使用して築造された芦安砂防堰堤の工事前年に、一部基礎にコンクリートを利用して築造されており、本堰堤の施工実績により、芦安堰堤にコンクリートが採用されたものである。
このような経緯から、平成9年5月、登録文化財となった。
本堰堤は、蛇行した河道を石積み堰堤で遮断し、蛇行点に突出した岩盤の後部を掘削して河道とし、堰堤幅38.5m、岩盤上河道幅45.5m、堤高19.4mの巨大堰堤とした特異な構造を持っている。
構築された堰堤本体は裙を大きく広げた空石積みで構造としては古いが、河道を遮蔽する基礎にコンクリート壁を使用していること、水に接する部分に目地止めが行われていること、岩盤に通水穴を設けること、直壁岩盤に流路を設けウォータークッションと同じ効果を持つことなど、技術転換期の遺構と言え、前年に完成した下流の日川水制とともに用いられた新技術が、後の砂防施設へと受け継がれている。
本堰堤や芦安堰堤など富士川砂防事業の初期に施工された多様な砂防施設は、近代砂防技術の確立に向けて一定の方向性を持っており、砂防技術の確立を目指す内務省土木局の実験場として重要な役割を担っていたと考えられる。