トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0051仲田遺跡
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(写真2)列になった足跡
(写真3)列になった足跡
中部横断自動車道と甲西バイパスができました。
16世紀後半頃(見つかった遺物の時代からわかりました)の田んぼの跡と人の足跡です。
凹んでいるのは、人の足跡です。きれいに並んで列になっているもの(2)(3)や、乱れた足跡(1)が見つかりました。
(写真左)足跡が見つかった状況です。ちょっと黒っぽく見えるのが足跡です。
黒っぽい土を掘りあげると、人が歩いた方向が見えてきました(写真右)。
奥に見える橋脚(きょうきゃく)は、中部横断自動車道です。遺跡の周辺には、現在の田んぼが広がっています。
手前の凹んでいるところには、砂利(じゃり)がいっぱい詰まっていました。調査の結果、江戸時代の頃に流れていた川と確認できました。
平らなところが、田んぼの床(とこ)です。田んぼの中央では、床土(とこつち)をきれいにだしているところです。
写真の左側に弓なりの細長く盛り上がっているところが見えますが、これは田んぼを区画する畦(あぜ)で、田んぼの水が流れてしまわないように水をためるために造られました。
田んぼの床は平らにしなければなりませんが、しかし、緩やかに傾いた土地では、広く平らにすることはとても大変な作業なのです。
現在でも、傾斜の急な土地では、田んぼの区画は小さく、階段状に造られていることから棚田(たなだ)と呼ばれています。
床を平らにする技術の進歩により、時代が新しくなるに従い田んぼの区画は大きなものへと変化していきます。
右の図は、写真の箇所を測量したものです。図の中央に弓なりの畦があり、この畦のほかに左にほぼ上下に2本延びているのも畦です。
ここで注目されるのは、足跡の列です。前ページの写真(2)(3)を見てください。足跡がきれいな列になっています。なぜでしょうか?
考えられるのは、田植えのとき、稲を直線的に植えたからだと思われます。そして、稲穂(いなほ)が垂れ下がってきた時期に稲刈りが行われましたが、その日には田んぼに水がたまっていたのでしょうか。横歩きしたかのような足跡が何列も見つかりました。
詳しい情報を知りたい方は、報告書を見ていただけたらと思います。
次回は、「その2」として他の時代の田んぼを紹介したいと思います。こうご期待!!
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シリーズ「山梨で発掘された昔の田んぼ」その1「仲田遺跡」所在地:南アルプス市(当時は八田村)野牛島地内 時代:16世紀後半頃 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第187集2001年3月刊行 調査機関:山梨県教育委員会・山梨県埋蔵文化財センター (写真)足跡の調査 (写真1)乱れた足跡 |