トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0058勝沼堰堤
ページID:4501更新日:2017年5月8日
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甲州市の遺跡
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勝沼堰堤が建設された過程についてはこちらをご覧下さい
日川水制と上流堰堤群についてはこちらをご覧下さい 勝沼堰堤(大正4(1915)年着工)[写真]下流からみた勝沼堰堤(祇園の滝と隧道出口) 勝沼堰堤を建設するとき、隧道は排水路として建設されました。そして、堰堤が完成した後に隧道をコンクリートでふさごうとしましたがうまくいかず、工事を打ち切って終了しました。しかし、隧道のすき間から水が抜け土砂だけ止める砂防堰堤としての役割を果たすようになり、水抜き穴の必要性がわかりました。 大正9~11(1920~22)年に着工された堰堤群[写真左]横吹(よこぶき)堰堤の水抜き穴 [写真右]駒飼(こまかい)堰堤の水抜き穴
このタイプの堰堤群は、勝沼堰堤と日川水制を維持するために大正中期に建設されたもので、多くの石を重ねてアーチ型の水抜き穴をつくっています。 大正12~昭和4(1923~29)年に着工された堰堤群[写真左]棚小屋澤(たなこやさわ)堰堤の水抜き穴 [写真右]矢方平(やかただいら)堰堤の水抜き穴
このタイプの堰堤群は、大正12年9月に起きた関東大震災の後に建設されたものが多く、アーチ型の水抜き穴をつくっていますが、アーチの上の部分は平らになり、使われている石の数は上の堰堤群よりも多くありません。 日川砂防工事における水抜き穴の変遷3つのタイプの違いが分かりましたか。大正年間のわずかな期間ですが、水抜き穴をとおして砂防堰堤建設の技術が進歩した様子を感じることができます。同時期に建設された砂防堰堤が山梨県内外にあります。さまざまな比較をしてみると、また違った一面がみえてくるかもしれません。 |