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ページID:8070更新日:2015年12月24日
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南アルプス市の遺跡0006十五所遺跡-方形周溝墓-0010大師東丹保遺跡-網代-0108大師東丹保遺跡-遺跡から発見された地震のツメ跡-0149大師東丹保遺跡-木製品-0200大師東丹保遺跡-出土した種子は何?-0259大師東丹保遺跡-下駄-0287大師東丹保遺跡-扇子の骨組-0357大師東丹保遺跡-洪水に埋もれた中期古墳-0392大師東丹保遺跡-地震痕のある遺跡-0017二本柳遺跡-木棺墓-0122二本柳遺跡-福寿院跡-0164二本柳遺跡出土の擂鉢-0276二本柳遺跡-火きり臼-0023宮沢中村遺跡-昆虫・網代-0051仲田遺跡-田んぼ-0052百々遺跡-八稜鏡-0065百々遺跡-錘-0066百々遺跡-馬の骨-0101百々遺跡-洪水の跡-0136百々遺跡-浄瓶-0172百々遺跡-平安時代の住居跡-0269百々遺跡-黒色土器-0274百々遺跡-古代のウシ・ウマ-0077善応寺遺跡-祭祀の水場-0081油田遺跡-田んぼと木製品-0144油田遺跡-木製竪杵-0231油田遺跡-体験学習用の復元品-0084堤防遺跡No.23-堤防の内部-0409釜無川堤防跡遺跡-0105石橋北屋敷遺跡-道路跡・区画溝-0106村前東A遺跡-パレススタイルの壺-0241村前東A遺跡-手焙形土器-0250村前東A遺跡-住居跡-0286村前東A遺跡-S字甕-0139宮沢中村遺跡-茶碗の焼継ぎ-0163大塚遺跡-約1,700年前の家の跡-0168新居道下遺跡の住居跡-0216長田口遺跡の鏡片-0340向河原遺跡-水田跡と杭列- |
甲府盆地を北から南へ流れる釜無川の右岸には、御勅使川扇状地(みだいがわせんじょうち)が広がっています。 大塚遺跡はこの扇状地扇央部より下流で、御勅使川左岸の西から東に向かって傾斜する少し高い部分にあります。 遺跡は工業団地造成のため、平成7(1995)年に発掘調査が行われました。発掘調査では、古墳時代前期(今から1,700年ほど前)や奈良・平安時代(今から1,300~900年前)のムラの跡がみつかりました。とくに古墳時代前期のムラは6軒と小さく、短期間で終わってしまいましたが、それでもこの時代のことを知るたくさんのヒントを得ることができました。今回は遺物がたくさん出土した4号住居跡をピックアップします。 所在地:南アルプス市(旧八田村)野牛島字大塚 時代:古墳時代前期・奈良時代・平安時代 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第137集(1997.3) 調査機関:山梨県埋蔵文化財センター 大塚遺跡で見つかった家の跡写真の4号住居跡は、遺跡の東側で見つかりました。遺跡の東側には同じ時期の住居跡がまとまって見つかっており、この地点に古墳時代前期のムラが作られていたことがわかります。住居跡は角が丸い四角の形(隅丸方形-すみまるほうけい-といいます)をしており、3カ所で柱の穴が、1カ所では柱をのせた平たい石が見つかっていることから、4本の柱で屋根を支えていたと考えられます。住居跡のほぼ中央では、焼けた土や炭が散らばっていたことから、ここで煮炊きなどの調理がおこなわれていました。このような住居跡の特徴は、古墳時代前期には一般的に見られるものです。 4号住居跡ではたくさんの土器が出土しました。しかしよく観察すると、土器と床の間には土が入っており、また柱の穴の上からも土器が出土していることから、住居跡に人が住まなくなり、埋まっていく途中でいらなくなった土器が捨てられたことがわかります。土器はすべて同じ時期に使われたもので、どれも破損品でした。北東コーナーからいっぺんに投げ捨てられたようです。 このムラは一世代で終わってしまい、このムラに住んでいた人々がどこへ移り住んだかはよくわかりません。しかし近年古墳時代前期の大集落である南アルプス市の村前東(むらまえひがし)A遺跡や韮崎市の坂井(さかい)遺跡が発掘調査されており、大塚遺跡の集落はある一時期これらの大集落をつなぐルート上の中継地点であったのではないかと考えられています。
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