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ページID:29131更新日:2017年5月16日
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甲斐市の遺跡0218金の尾遺跡-土偶-0228金の尾遺跡-紡錘車-0273金の尾遺跡-4号住居-0398金の尾遺跡-県内最古のガラス玉-0245唐松遺跡-炉のない家-0363唐松遺跡-炉と土偶-0253竜王2号墳-馬具にみる古代の技術- |
▲写真:金の尾遺跡全景 金の尾遺跡(かねのおいせき)は昭和54年から55年にかけて、中央自動車道建設に伴い発掘調査されました。 本遺跡は現在の中央自動車道の甲府昭和インターチェンジと韮崎インターチェンジの中間、甲府昭和よりの甲斐市大下条にあって、荒川の扇状地の末端に位置しています。 縄文~弥生時代の遺構や遺物が多数発見されました。なかでも弥生時代の大規模な集落祉が発掘されましたが、甲府盆地内部でこのような大規模な弥生時代の住居祉が発見されたのは初めてでした。 所在地:甲斐市大下条金の尾 時代:縄文時代、弥生時代 調査機関:山梨県教育委員会、日本道路公団 報告書:『金の尾遺跡・無名塚(きつね塚)』1987 山梨県埋蔵文化財センター調査報告第25集 金の尾遺跡についての過去のトピックはこちらをご覧ください。→No.0218 紡錘車とは。▲(左)写真(右)実測図、金の尾遺跡出土紡錘車 これは「紡錘車(ぼうすいしゃ)」と呼ばれる遺物です。長くつないだ繊維に撚りをかけて糸にして巻き取る道具を紡錘(つむ)といい、糸を巻き取る際に軸の回転にいきおいを与えるはずみ車が紡錘車(または紡輪)です。弥生時代に広く普及し、布を織るための糸、釣糸、漁で使用する網用の糸などをつくるために使われました。 ▲紡錘車模式図 では、紡錘車はどのように使われたのでしょうか? 紡錘車の中心に空けられた穴に棒(紡茎)を通し、繊維を装着します。そして、全体をコマのように回転させながら撚りをかけ、できた糸を巻き取っていきます。 独立行政法人情報処理推進機構の『教育用画像素材集』では、紡錘車の使い方を動画で紹介しています。(『トップページ下側役立つ注目コンテンツ/教育用画像素材集』→『社会』→『歴史』→『調べてみよう!日本人のくらしの移り変わり』→『弥生時代』→『衣服』→『糸をつむぐ:弥生時代』) ▲実測図:(左)榎田遺跡出土、土製品(右)二之宮遺跡出土、鉄製品
紡錘車は土製や石製の物が多く見られますが、他にも木製、骨角製の物もあります。奈良時代以降には紡錘車、紡茎ともに鉄製の物も使われるようになりました。大きさは3~5cm程度の物が多く見つかっています。形は円盤、球、円柱、円錐、算盤玉形など様々なものがあります。
縄文時代の穴の開いた円盤形の土製品を紡錘車とみる説もあります。古墳の副葬品の中には、碧玉(へきぎょく)製のものや滑石(かっせき)製の物が出土しています。これは実用品ではなく古墳被葬者に供えられたものと考えられており、紡錘車は祭器の一つだったのかもしれません。また、平安時代の「延喜神祇式」の伊勢神宮の「神宝廿一種」にも祭器として載っています。江戸時代に木綿を紡ぐ糸車が中国から伝来して以来、糸を紡ぐ道具の主役の座をとって代わられましたが、漁村や山村などでは麻やイラクサなどの繊維に撚りをかけるのに昭和初期まで使用されました。 長い間、使われ続けたことや祭器にもなっていることから、紡錘車は小さな道具ですが人々にとって重要な道具だったことがわかります。 参考図書:「日本考古学事典」三省堂、「日本大百科全書」小学館 『二之宮遺跡』山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第23集1987 『榎田遺跡』山梨県埋蔵文化財センター調査報告第105集1995
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