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ページID:29383更新日:2016年2月25日
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土器片に刻まれた線の正体は?▲写真左:土器片内側、写真右:土器片外側 土器片(高さ約14センチ)に刻まれた線はすり鉢の卸目(おろしめ)です。口縁部(こうえんぶ)の曲線状になっているところは片口にあたります。このすり鉢が出土した稲山遺跡は、中世の遺構・遺物が多く確認されており、このすり鉢も中世のものと考えられます。 稲山遺跡について稲山遺跡は、昨年度山梨リニア実験線建設に先立ち発掘調査が行われた遺跡です。甲府盆地の南縁に連なる曽根丘陵の東方に位置し、遺跡東側に浅川、西側に四ツ沢川(よつざわがわ)が流れ、周辺には県史跡の岡・銚子塚古墳などがあります。発掘調査の概要については、トピックスNo.150、No.160、No.170で調査速報が、No.209では出土遺物の常滑甕(とこなめがめ)について紹介されています。 ▲写真:稲山遺跡全景 すり鉢の卸目(おろしめ)が語るものフードプロセッサーや「すりごま」のような加工済み製品の普及により、今は調理器具として使う機会が減ってきたすり鉢。歴史をみると、それらしい言葉が登場するのは世界では中国の宋代(960~1279)で、「擂槌(すりき)」と表記されていました。日本ですり鉢が初めて記録に登場するのは平安時代の治承3年(1179年)の「山塊記(さんかいき)ですが、ここでは「摩粉木(まこぎ)」と表記されていました。すり鉢という名が頻繁に登場するのは、室町後期に入ってからのことです。 なぜ、すり鉢と呼ばれるまでに長い時間がかかったのでしょうか。この手がかりになるのが、卸目なのです。 形状の歴史をみてみると、平安時代末期頃には、すり鉢と同様の形のものが作られていたようですが、これには内側に卸目がなく、「すり鉢」というより「こね鉢」と言える、とされています。その後大陸から輸入されるようになり、中世の鎌倉時代になって、日本でも卸目の入ったものが焼成されるようになったと言われています。特に備前(びぜん:今の岡山県)はその生産地として昔から知られ、全国に流通していました。 中世のすりばちは、現在のように鉢の内側全面に卸目が入っていないのが特徴です。数本ずつ刻まれた卸目は、底部から口縁に向かって放射状に延びており、時代が下がると卸目の数がだんだん密になっていきます。(今回取り上げた稲山遺跡のすり鉢は、7本ずつ卸目が刻まれています。)全面に卸目が細かく施されるようになるのは近世に入ってからのようです。それゆえ、中世のすり鉢は「する」という役目ではなく脱穀が不完全な穀物を「研ぐ」ために使ったのではないか、という考えもあるようです。 ごま和え、豆腐の白和え、かまぼこなどの料理が生まれたのは室町時代以降と言われています。これらはすり鉢があったからこそできあがった料理で、一見地味な調理器具が当時の人々の食生活や食文化に与えた影響は大きいと言えるでしょう。
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