トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0316酒呑場遺跡
ページID:39932更新日:2016年2月25日
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北杜市の遺跡0002甲ッ原遺跡-埋甕-0009横針前久保遺跡-石器-0018金生遺跡-中空土偶-0031天神遺跡-硬玉製大珠-0050天神遺跡-石匙-0336天神遺跡-集落跡-0057丘の公園第2遺跡-石器-0134丘の公園第2遺跡ほか-陥し穴-0075原町農業高校前遺跡-縄文土器-0076原町農業高校前遺跡-縄文土器-0109原町農業高校前(下原)遺跡-陥し穴-0115原町農業高校前遺跡-人面装飾付土器-0137原町農業高校前遺跡-人面装飾付土器-0094清里バイパス第1遺跡-陥し穴-0112海道前C遺跡-人面装飾付土器-0254海道前C遺跡-抽象文土器-0138甲ッ原遺跡-縄文時代前期初頭の住居-0142金生遺跡-耳飾り-0169甲ッ原遺跡-石皿とすり石-0212甲ッ原遺跡-琥珀垂飾について-0294甲ッ原遺跡-漆が塗られた土器片-0405甲ッ原遺跡-特殊脚付鉢-0226塩川遺跡-中世の調理器具-0236天神遺跡-日本最古のヒスイのペンダント-0237酒呑場遺跡-マメの圧痕-0308酒呑場遺跡-火焔型土器-0316酒呑場遺跡-産まれる縄文人-0319酒呑場遺跡-海へのあこがれ-0239甲ッ原遺跡-縄文時代前期初頭の住居跡と土器-0271金生遺跡-鉄釉兎形水滴-0272中込遺跡-絡条体圧痕文土器-0315郷蔵地遺跡-敷石住居-0323金生遺跡-縄文ランドスケープ-0328酒呑場遺跡-酒呑場遺跡で見つかった『謎』の土器片-0399酒呑場遺跡-豊かな縄文時代中期文化を代表する683点の出土品-0338柳坪遺跡-縄文時代中期の土器-0377丘の公園14番ホール遺跡-長大な石槍で狩りをする人々の15000年前の石器作り工房跡-0380日影田遺跡-住居跡と炉- |
酒呑場遺跡とは…酒呑場遺跡(さけのみば・いせき)…というちょっと変わった名前のこの遺跡は、北杜市長坂町にあります。八ヶ岳南麓の標高約700m前後の場所に位置する、縄文時代前期から後期にかけての遺跡です。遺跡からは縄文時代のほかにも、古墳時代の住居跡なども見つかっています。発掘調査は、県酪農試験場の改築・増築工事に先立ち行われたもので、1994年から1996年にかけてと2001年に行われました。 八ヶ岳山麓一帯には山梨県側・長野県側ともに縄文時代の遺跡が数多く分布しています。酒呑場遺跡は、この八ヶ岳の火山活動が活発だった頃の大爆発によって、山の一部が崩れ落ちたいわゆる「流れ山」に由来する小山の上に立地しています。この南側には縄文時代晩期の長坂上条遺跡があります。多くの縄文遺跡が集まるこの一帯は縄文人たちにとっては暮らしやすい場所だったんでしょうね。 発掘調査の様子 今回のトピックスでは、この酒呑場遺跡第2次調査C区の第97号住居跡から見つかった‘出産の様子’をあらわした土器について紹介したいと思います! 所在地北杜市長坂町長坂上条 時代縄文時代 報告書山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第135集「酒呑場遺跡(第1・2次)-遺構編-」1997 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第136集「酒呑場遺跡(第3次)-遺構編:前編-」1997 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第169集「酒呑場遺跡(第3次)-遺構編:後編-」1998 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第209集「酒呑場遺跡(第4次)-遺構編:後編-」2003 ★過去のトピックスもご覧下さい★ No.0237酒呑場遺跡-マメの圧痕- No.0254酒呑場遺跡-火焔型土器- 産まれる縄文人酒呑場遺跡(北杜市長坂町)から見つかった土器 これは土器の胴体部分の破片ですが、こちらの胴体の丸い部分には、顔がのぞいています。 これだけだと、土器の全体がよくわからないので、似た土器と比べてみましょう! 下の土器をごらんください。 人の顔が付いた土器 これは、海道前C遺跡(北杜市高根町)から見つかった土器です。土器の縁には顔が付いています。上の酒呑場遺跡出土の土器も、全体的にはこんな姿だったと考えられます。 この土器は、お母さんの体全体を表わしており、土器の胴体部分にある丸い部分からは、今にも赤ちゃんが顔を出そうとしていると考えられます。 さらに、下の土器をごらん下さい。 御所前遺跡(北杜市須玉町)から見つかった土器 (北杜市教育委員会所蔵:山梨県指定文化財) こちらの土器では胴体の丸い部分に顔がはっきり見える上に、顔の部分が立体的に作られているので土器から今にも出てきそうな雰囲気です。 土器全体を見ると、まさに赤ちゃんとお母さんという構図ではないでしょうか。。。 このように、他遺跡の事例を見てみると、酒呑場遺跡の土器は、赤ちゃんがまさに産まれようとしている状態を表わした土器の一部だということがわかります。 ここに載せた土器を出産の過程として見ると、 〈海道前C遺跡→酒呑場遺跡→御所前遺跡〉 というような感じになるでしょうか… 子に対する縄文人のまなざし医療技術の向上がめざましい現代でも、出産は生死が隣り合わせだと言っても過言ではないでしょう。ましてや縄文時代という大昔では、子が無事産まれてきてくれるということは奇跡に近い事だったのかも知れません。 「出産文土器」や「誕生土器」とか呼ばれる、これらの土器から神々しいものを感じるのはそういう理由からなのかも知れません。 このような土器の造形からは、縄文人たちの子に対する優しいまなざしや、命への尊い思いを改めて感じる事ができます。現在の日本では残念なことに、耳をふさぎたくなるような子どもに対する虐待のニュースばかりですが、便利で快適な生活の陰に忘れ去られた大切な事を思い出す必要があるのではないでしょうか。 |