トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 遺跡トピックスNo.0322県指定史跡?武田勝頼の墓?-経石-(きょうせき)〈甲州市大和町景徳院〉
ページID:40632更新日:2017年6月16日
ここから本文です。
甲州市の遺跡
|
天竜山景徳院(てんりゅうざんけいとくいん)の沿革景徳院は、甲州市大和町田野に所在する曹洞宗のお寺です。 天正10年(1582)3月11日、武田勝頼(37歳)・北条夫人(19歳)・嫡男信勝(16歳)の親子が自害し、更に従者も殉死(じゅんし)し、武田家が滅亡してしまいます。翌日、広厳院(笛吹市一宮町)第7世住職が亡骸(なきがら)を集めて供養を行ったとされ、同年7月には、徳川家康が入国し、勝頼の追善を祈り、菩提寺を田野の地に建立するよう武田の遺臣に命じ、田野一円を寺領として与え、田野寺が建立されました。その後、武田勝頼の法号である「景徳院」を寺号とし、天正16年には本堂・庫裡(くり)山門等の諸堂が完成し、壮大な景観であったと言われています。 その後、幾たびかの大火により諸堂を焼失しましたが、復興を遂げ、現在の景徳院の境内や山門は、県の文化財に指定されています。 そんな、景徳院の境内の南側に「甲将殿(こうしょうでん)」と称する御霊屋(みたまや)の裏手に武田勝頼の墓は建立されており、やはり昭和33年6月19日に県の文化財に指定されています。 景徳院山門 武田勝頼の墓(保存修繕前) 武田勝頼の墓について武田勝頼のお墓は、写真のように、中央に勝頼の宝篋印塔(ほうきょういんとう)、向かって右側に北条夫人の五輪塔、同じく左手に信勝の五輪塔3基が長方形の基壇に据えられ、その両脇には正方形の基壇上に殉難者の供養塔2基が据えられています。 勝頼の宝篋印塔には、安永4年(1775)3月11日に当時の第十一世の住職が、二百遠忌(にひゃくおんき:五十年忌以後、五十年毎に行う法要)の際に建立したと刻まれています。しかし、二百遠忌の法要が実際に営まれたのは、四年後の安永8年(1779)3月15日~21日の7日間渡りに行われたことが、古文書等から判明しています。 ではなぜ、4年後に二百遠忌が執り行われたのでしょうか?。 このことから、勝頼の二百遠忌に併せて、山門の落慶法要(らっけいほうよう)も執り行い、伽藍整備(がらんせいび)という大事業が行われてことが推測されます。 石塔撤去後発掘調査風景経石出土状況 勝頼・北条夫人・信勝の法号が記されている経石 経石について経石は、宝篋印塔や五輪塔等の石塔解体後、基壇の中の調査においておびただしい数の経石が確認されました。 写真の経石の表には、勝頼、信勝、北条夫人、の法号である「景徳院殿頼山勝公大居士(けいとくいんでんらいざんしょうこうだいこじ)」、「法雲院(殿)甲巌勝信大居士(ほううんいんでんこうげんしょうしんだいこじ)」、「北条院殿模安妙相大禅定尼「(ほうじょういんでんもあんみょうそうだいぜんじょうに)」と記されています。 また、裏には「安永九年子年七月」「奉天瑞(てんずい)」とあり、これは、中央基壇の右側の殉難者供養塔下部から出土したものです。 ですから、安永4年に二百遠忌による勝頼・北条夫人・信勝の石塔が建立され、安永8年に山門等の落慶も併せた法要が執り行われ、安永九年には天瑞による供養も行われ、その時に殉難者の供養塔も建立されたと思われます。 保存修理後の武田勝頼の墓 一般的にその多くの経石は、一つの石に一文字の経文を書き写した「一字一石(いちじいっせき)」と言われてますが、今回の勝頼のお墓の経石は、一つの石の複数面に経文を書き写した「多字一石(たじいっせき)」と言われ、法華経(ほけきょう)や般若経(はんにゃきょう)等の経典(きょうてん)を写経されたものが、合計5,275点が確認されました。 この中には、安永三年の年号が記された経石も見られ、勝頼の宝篋印塔が建立される前年から写経を始めたことが判ります。これは、5千個以上写経用の石を集めるのにも、多くの人の協力が必要となり、勝頼・信勝・北条夫人の故人供養を行う目的と、さらには、供養以外の『功徳(くどく)』(※仏様から良い報いを与えられるような、良いおこない。)を得るために、多くの庶民の協力と長い期間を経て、二百遠忌が執り行われたものと思われます。 二百遠忌から二百三十年後の、平成21年11月20日には、保存修理の際に二百遠忌と同様に、多くの人の協力を得て、写経を行い、平成の経石の埋納式が行われ、保存修理の完成と併せて盛大に法要が行われたそうです。 |