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ページID:67248更新日:2017年5月11日
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県指定史跡甲府城跡一覧
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いつぞや、あるテレビ番組で若いアナウンサーがある城の紹介をしていました。 「まるで要塞(ようさい)みたいです。」 城はかつての要塞です。しかし、織田信長や豊臣秀吉の時代になると、城は敵軍の攻撃を防ぐという目的に加えて、権威(けんい)を演出するという面が重視されてきました。 1590年代に豊臣秀吉の指示のもと、浅野長政らによって築かれた甲府城も例外ではありません。甲府城は四方を石垣で囲まれています。城主の権威の大きさを石垣で表したものと考えられます。 遺跡トピックスのNO.416では、天守台の大きな石、鏡石(かがみいし)を紹介しましたが、今回はそれよりも大きい鏡石を紹介します。場所は鉄門(くろがねもん)の左側です。鉄門は甲府城の正面玄関である追手門(おうてもん)から本丸へ向かうメインルートにあります。そのルートに沿って大きな石が石垣に組み込まれていることになります。 写真1鉄門左側の鏡石鏡石の始まりは、織田信長の小牧山城(こまきやまじょう)に始まるとされています。その後の安土城(あづちじょう)の工事では大きな石を運ぶ際に石がすべり落ちて多数の人が亡くなったという記録があります。 では、城を作る作業にはどのような人が関わったのでしょうか? 1546年(天文15年)、奈良の竹内城の工事で3人が事故で亡くなりました。彼らは井戸掘りや庭造りなどに携わっていた人たちでした。これは、奈良の興福寺の塔頭(たっちゅう)の多聞院(たもんいん)が15世紀末から17世紀始めにかけて残した記録によります。 戦国時代には築城、石組みの職人の存在が明らかになっています。そうした中の一つに、織田信長の安土城の築城に関わった近江(おうみ)(滋賀県)の穴太衆(あのうしゅう)という石組みの集団がありました。信長の死後、豊臣秀吉によって各地の工事に参加し、穴太衆の技術は全国に広まりました。江戸時代には穴太衆の子孫が石垣の補修を担当した藩がありました。加賀藩(かがはん)(石川県)では、石垣の補修の係を穴太役(あのうやく)といい、後藤家が代々受けつぎ、石垣の秘伝書(ひでんしょ)を書き残しています。 今回は、以下の本を参考にしました。 千田嘉博「信長の城」(岩波新書)2013年 上原善広「路地の教室」(ちくまプリマー新書)2014年
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