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ページID:71152更新日:2016年2月25日
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甲府城下町の遺跡
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遺跡概要
所在地_甲府市_甲府駅南口(甲府合同庁舎) 時代_近世、近代 報告書 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書_第215集『甲府城下町遺跡-甲府駅周辺土地区画整備事業地内43街区埋蔵文化財調査報告書-』2004
甲府城下町は、現在舞鶴城公園として整備されている甲府城を中心にその周囲に広がっています。今回紹介する汽車土瓶が出土した地点は、現在の山梨労働局等が入る国の合同庁舎にあたります。 近世には、この地点を含む甲府城北西及び南側に城下町を形成する武家屋敷があったことが、絵図や発掘調査などからわかっています。 明治36年には中央線が開通し、甲府が近代都市へと変貌する中、現在の甲府駅近辺の土地区画が大きく変容します。今回取り上げた地点は武家屋敷から停車場・駅構内として利用されるようになりました。
汽車土瓶汽車土瓶とは、お茶を入れる陶器で出来た容器のことです。注ぎ口や持ち手を取り付ける耳が付いており、急須に似た形状をしています。汽車土瓶は、ポリ容器のポリ茶瓶に取って変わられ、そのポリ茶瓶も現在では、ペットボトルに駆逐されてしまいました。
汽車土瓶には表面に文字が書かれたものがいくつか報告されています。これは、次のように販売された駅名や食堂名が記されていました。 (1)には、「新」の文字が見え、新宿駅・新橋駅など「新」がつく駅名が記されたと考えられます。(2)の「うへの」は「上野駅」・「上野原駅」が考えられ、(3)の「の原」は「上野原」が推定出来ます。(4)の「桂川館」は、大月駅前に「桂川館」という食堂があったことがわかってており、この食堂名が記載されているものと思われます。
また下図の土瓶のかけらには「・・・土びんはこしかけの下・・・」という記載が見られることから、駅名・店名は回収・再利用のために書かれていたと考えられますが、回収率は30パーセント前後であり、使い捨てにされていたようです。
このように遺跡から出土した汽車土瓶は、新宿、上野原、大月などでの駅弁の販売や当時の鉄道での旅行のようすをものがたる資料になっています。
出土資料の汽車土瓶からは、鉄道による当時の人や物資の流通のようすを具体的に知ることが出来ます。 明治5年に新橋-横浜間に日本で初めて鉄道が開通した後、明治36年には新宿-甲府間でも中央線が開通しました。したがって今回取り上げた資料は明治36年以降、甲府にもたらされたものと考えられます。 このような資料から幕末まで甲府城下町の武家屋敷として利用されていたこの土地が、明治に入り中央線開通などにともなって近代化し、新たに都市形成されていくようすをうかがうことができるのです。
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