ページID:72584更新日:2016年5月12日

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遺跡トピックスNo.439 考古博物館構内古墳の甲冑(甲府市)

考古博物館構内古墳とは?

現在の考古博物館構内古墳 

写真:考古博物館の東に復元された考古博物館構内古墳

 

考古博物館構内古墳は、甲府南インターチェンジ前にある山梨県立考古博物館・埋蔵文化財センターのすぐ東側に所在する古墳です。曽根丘陵にあり、標高は約255mほどです。考古博物館・埋蔵文化財センターを建設するため昭和56年(1981)に、また公園整備のため昭和61年(1986)に、それぞれ発掘調査がおこなわれました。

 調査を行う時、すでに古墳は造られた当時の形ではありませんでした。しかし、発掘調査により、横穴式石室の奥壁に設置された巨石や床部分に敷かれた石の範囲から、石室規模が全長6.55m、幅約2.15mであること、また墳丘規模は約15mで南に向かって開口することなどが確認されました。

さらに石室からは、直刀(ちょくとう)や弓(ゆみ)、鉄鏃(てつぞく)などの武器類、刀子(とうす)、鉋(かんな)などの工具類、轡(くつわ)や鞍(くら)、飾金具などの馬具類、甲冑小札類(かっちゅうこざねるい)、金環(きんかん)、各種玉類などの装身具類など、多くの副葬品が出土しています。副葬品から6世紀前半に古墳が造られ、7世紀前半代まで遺骸が納められたことがわかります。

 

◆遺跡名:考古博物館構内古墳〔こうこはくぶつかんこうないこふん〕

 ◇所在地:甲府市下曽根町字岩清水

◆時代:古墳時代後期

◇調査機関:山梨県埋蔵文化財センター

 

考古博物館構内古墳1考古博物館構内古墳2

写真左:発掘調査中の古墳 写真右:小札出土状況

 

古墳時代に武人がいた?!~甲冑小札の出土から~

 考古博物館構内古墳から出土した副葬品のうち、今回注目するのは「小札(こざね)」です。小札とは、戦いの時に敵の攻撃から体を守る甲(よろい)や冑(かぶと)を構成する部品の一つで、鉄製の長方形の板にひもを通す穴をあけたものです。この小札を革や糸で上下に威(おど)して甲を完成させます。

甲は、古いものは弥生時代に木製のものが見られますが、古墳時代前期になると鉄製のものが登場します。古墳時代中期には、渡来人より甲冑製作の技術が日本の甲冑作りを担当する人たちに伝えられ、国内で生産されるようになることから、多くの古墳で副葬されるようになりました。本古墳に近接する古墳時代中期のかんかん塚(茶塚)古墳からも、この時期の甲冑が出土しています。

 一方、古墳時代後期になると甲冑の副葬は少なくなり、代わって金銅製や色彩豊かな装身具が副葬されるようになります。これは古墳を築造する首長層が軍事を重視することから、やがて法に基づく制度へと変化していくことが背景にあるようです。

さて、考古博物館構内古墳では出土した小札の数が少なく、どんな甲であったのか全体像はよくわかりません。ただ、写真左の上部にあるひときわ大きな小札2点は、おそらく両手の甲を守る手甲であったと考えられています。一方ガラス玉等アクセサリー類も副葬されているので、ここに葬られた人物はもしかしたら文武両道の人物だったのかもしれません。

甲冑 武人

写真左:出土した小札。細長い長方形の鉄の板に上下に3点ずつ対になって左右に等間隔で穴があけてあります。上の大きな小札2点は手甲(てこう)と考えられます。

写真右:甲冑を身につけた古墳時代の武人

 

甲府盆地にもたらされた甲冑

古墳時代後期には、全国的に中期よりは少なくなってきた甲冑ですが、当時はたいへんな貴重品で、この時期のものは県内でも考古博物館構内古墳の出土例を含めて3例しか確認されていません。

このうち、1例は本古墳に近接する稲荷塚古墳のもの、もう1例は笛吹市春日居町の平林2号墳のものです。本古墳や稲荷塚古墳が所在する中道地域は、古墳時代前期からずっと大型前方後円墳が造られる場所です。一方、平林2号墳が所在する春日居地域は、県内では初期古代寺院である寺本廃寺や、一時期国衙が所在した地域です。いずれの地域にも、最新の情報を手に入れることができた人物がいたと考えられます。甲冑はこのような人物たちによって、甲府盆地にもたらされたのではないでしょうか。

 

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住所:〒400-1508 甲府市下曽根町923
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