ページID:77709更新日:2017年2月14日

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隼遺跡の立地を地層からとらえる

1.隼遺跡とは

隼遺跡は山梨市牧丘町隼の国道140号(通称、御坂みち)沿道の崖の中腹にある遺跡です。この遺跡は、『大黒窟』と『大士窟』の2つのいわや(自然にできた洞穴、または岩に人工的な横穴を開けてつくった石室)からなる洞窟遺跡です。この遺跡を埋蔵文化財センターが平成28年7~8月の2か月をかけて発掘調査しました。その結果、この窟には仏像を安置する木造建造物があったり、護摩を焚いて礼拝をするなど宗教的な色彩の強い施設だったことがわかってきました。今回は、このいわやがこの地につくられた理由を地層から考えてみます。

写真2

崩落防止工事前の隼遺跡のある崖

 

写真1反対側の崖から見た隼遺跡(工事前)

2.隼地区を広く覆っている岩石は

隼遺跡は隼地区にあり、山梨市は水ヶ森火山岩という岩石が広く地表を覆っています。水ヶ森火山岩は細かくは4つの層に分かれるのですが、その一番下の層、つまり一番古い地層をこの地区の地名から取って『山口軽石凝灰岩』といいます。軽石を多く含む火山灰が湖底や海底に堆積たいせきしてできた堆積岩という種類の岩石です。およそ200万年前にできた地層なので、長い時間の中で粘土化して黄褐色(黄色がかった茶色)に変わりもろくなっているものがほとんどです。この山口軽石凝灰岩でできた地層が100m、厚いところでは200mも山梨市を覆っているのです。もちろん、隼遺跡一帯もこの地層に覆われています。

この軽石凝灰岩という岩石は、もともと火山灰からできているので非常に柔らかい岩石(凝灰岩)です。

写真3発掘調査前の大黒窟の様子

 

この柔らかさゆえ、上の写真のように凝灰岩の岩盤から大黒窟の天井、壁面、床をきれいな平面に削り出すことができたのです。細かいところはノミで削り出しているのが左下の写真からわかりますね。また、右下の写真は発掘作業のひとコマですが、大黒窟入り口を塞いでいた岩を人の力で動かせるように工具で小さく割っているところです。このようなことがたやすくできるのも、この岩盤が軽石凝灰岩という柔らかい岩石でできているからです。

写真5

こんなに大きな石でも、石ノミとハンマーで思いのほか簡単に割ることができます

写真4

大黒窟の天井から落ちた岩。ノミの痕がはっきりと残っています

 

隼遺跡のある隼山の東斜面の一番下では下のような露頭が観察できます。これは、山口軽石凝灰岩でできた大きな岩塊です。大黒窟ができる前の崖は多分、右のようなものだったと推測できます。

数百年前、修行僧が崖の中腹の不安定な場所で何らかの方法で落ちないように身体を固定して、このような岩を削っていって大黒窟を彫り上げたのでしょう。もちろん手作業ですから、完成までには何日も何日もかかったはずです。

 

このように柔らかくて掘りやすい山口軽石凝灰岩という岩石でできた崖の存在が隼遺跡成因のひとつになっていることは確かでしょう。

写真6

隼山の東側で見られる露頭

写真7

隼遺跡のある斜面を崖下から撮影(工事前)

 

図8

命がけで崖を彫り込んでいったと考えられます

 

3.山口軽石凝灰岩の地層は、凝灰岩の塊ばかりじゃない!

れき層や火山角れき岩の層もある

写真10隼山の北側斜面

隼山に北側の斜面から登ると右のような露頭が見られます。隼山の東側と比べるとまったく別の様相です。ところが、この地層も山口軽石凝灰岩に含まれる火山礫層や火山角礫岩層です。

直線的な掘り方の大黒窟に対して、下の写真の大士窟は入り口も内部の形状もまったく異なります。どちらかというとドーム型です。

写真9

大士窟の入り口側から見た全景(工事前)

 

右の図は、工業技術院地質調査所(地質調査総合センターの前身)が昭和59年に発行した地域地質研究報告「御岳昇仙峡地域の地質」の中で報告している山口地区で調べた山口軽石凝灰岩の地層の柱状図です。

この図を見るとAやBの凝灰岩層以外にもCやDの火山礫層や火山角礫岩層が存在することがわかります。裏山の露頭は、ちょうどC層やD層といった礫を中心とした地層を見ていることに他なりません。

 

山口軽石凝灰岩の《山梨市牧丘町山口地区における》柱状図

(三村1971)

A:成層した凝灰岩層a:輝石の結晶粒や石質岩片に富む層

B:塊状凝灰岩層b:b:軽石に富む層

C:火山礫層c:斜層理の見られる火山灰層

D:火山角礫岩層

Pm:軽石Lp:火山礫

Tf:火山灰Vb:火山岩塊

図11

 

同じ山口軽石凝灰岩とはいえ、これだけ性質が違うと洞窟の掘りかたも変わってきます。

大黒窟より高さにして10mほど低いところに位置する大士窟は下の写真でわかるように、大小の礫を大量に含む火山角礫岩を彫り込んで造ったものです。発掘調査時には、崩れやすい岩石に輪をかけて表面の風化が進んでいてちょっとした地震でも人の頭よりも大きな岩が落ちてきそうな危険な状態でした。(現在は壁面にコンクリートを吹き付けて安全対策が施されています)大士窟が造られたと思われる数百年前は、いくらか風化の程度は少なかったでしょうが、火山灰主体の岩石ですから安山岩や花崗岩といった硬い岩石とは比べものにならないくらい崩れやすかったはずです。崩れやすいということは、裏を返すと洞窟などを掘りやすい岩石と言えます。大黒窟と同じように平面主体の加工は無理ですが、金槌や石ノミを使ってドーム状に掘ることは比較的容易だったはずです。崩落の危険さえなければ、窟づくりにはうってつけの場所だったわけです。

 

写真12大士窟の天井をつくっている岩石。今にも落ちてきそうなものもありました

4.最後に

このように隼遺跡のふたつの窟は、この地域を広く覆う山口軽石凝灰岩という掘りやすい岩石でできた崖があったがゆえに造ることができた洞窟と言えます。その形の違いは、それぞれの岩石の違いからくるものです。

崩れやすい山口軽石凝灰岩にもかかわらず崖という形で残った隼山。その中腹で人里を見下ろすことができるという立地条件も宗教的施設を造るのに大切な要素だったのかも知れません。先人は、この窟から見下ろす光景にどんな思いを馳せていたのでしょうか。

 

大士窟からは眼下に塩山の街を見下ろせます。遠く甲府盆地の一部も望むことができます

写真13

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