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ページID:85632更新日:2018年6月8日
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甲府城下町の遺跡
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甲府城下町遺跡~排水のための遺構~遺跡の概要甲府城下町遺跡は中世末期~江戸時代にかけて、甲府城が築かれると共に整備されていった城下町です。一の堀に囲まれた範囲が甲府城であり、その外側の二の堀に囲まれた「武家地」、さらに外側の三の堀に囲まれた「町人地」が甲府城下町にあたります。
今回の調査地点
甲府城下町遺跡
調査区は甲府城下町の西側にあたります。 たちばな児童公園の地下を流れる「二の堀」
たちばな児童公園から南へ流れる「二の堀」
今回のトピックスでは、水場遺構についてみてみたいと思います。 発掘された集水桝今回の調査では石垣や溝などの遺構が確認されました。その中でも調査区の南西側は、もっとも地形が低くなる箇所であり、水が集まりやすくなっているため、排水に関わる遺構が多く見つかりました。 集水桝と二の堀(上空から)
発掘された集水桝(矢印は水の流れ) 実はこの水を出すための水路は、当初は西方向ではなく、南方向に付けられていました。集水枡の南面を見ると、一箇所だけ石がなく、礫混じりの土で埋められていました。当初の水路を埋めて、水が流れる先を変更したと考えられます。
礫混じりの土で埋められた南面の水路
集水桝の目的では、この集水枡は何のために造られたのでしょうか。現状では良く分かっていませんが、可能性は大きく二つ考えられます。
1.沈砂のため 1回水を溜めることで泥などを沈殿させ、上澄みのきれいな水を排水していた可能性があります。 2.水を溜めるため 何かを洗うなど、利用するために水を溜めていた可能性があります。 甲府城下町遺跡で、このような集水枡が見つかったのは初めてのため、今後は他の城下町など類例を調べて検討していく必要があります。
その後の排水集水枡は江戸時代の途中から利用されなくなり、代わりに暗渠を使って排水を行っていたことも分かりました。二の堀の脇には新たに盛土遺構が築かれ、暗渠はその下を通っています。またしても、排水の方法が変わったことになります。 集水桝の後に作られた暗渠(集水桝に繋がる水路を壊して造られている)
斜めに土を積み上げて築かれた盛土遺構
今回の調査では、長い時間をかけた町づくりの中で、排水の方法を何度も変えていったことが明らかになりました。 解説看板についてこの集水枡と暗渠が見つかった箇所は、当初の工事計画を変更して、そのまま現地に埋設保存されています。
たちばな児童公園の脇に設置された解説看板
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