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ページID:85156更新日:2018年6月15日
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南アルプス市の遺跡
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壱番下堤跡
所在地:南アルプス市(旧中巨摩郡八田町)上高砂 時代:中世~近世 調査機関:山梨県教育委員会 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告第190集
壱番下堤(図2の緑丸)は南アルプス市上高砂にある釜無川の「護岸施設」です。護岸施設とは、川や海の水流の浸食を防ぐために、断崖状の岸に造られるものです。1990年代に甲西バイパス建設事業が行われることになり、この建設に伴う発掘調査により壱番下堤跡が確認されました。 また、壱番下堤の上に二番堤という堤防が現存しています。壱番下堤及び二番堤という名称は、二番堤の川が流れている側を「一番下」、その反対側を「二番下」と呼んでいることに由来します。二番堤は壱番下堤とは違い、現在も地表面で確認することができます。しかし、調査で二番堤の断面を観察すると、内部に古い堤防(旧堤体)があることがわかり、この旧堤体は3回に渡って造られていました。つまり、この場所に壱番下堤と二番堤を合わせて4回堤防が造られていたという新たな事実が調査成果として判明したのです(図1)。 旧堤体1段階目は自然に堆積した地形を巧みに利用して造られていましたが、それ以降の旧堤体は、人の力で砂と粘土を交互に突き固めて造られていました。おそらく、昔の人々は初めに壱番下堤を造り、洪水の対策をとっていましたが、低い壱番下堤は洪水によって埋もれてしまったので、さらに高い位置に労力をかけて二番堤を新築し、水害に備えたのでしょう。では、なぜ当時の人々は同じ場所に何度も堤防を築く必要があったのでしょうか。その答えは、壱番下堤と二番堤だけを調査してもわかりません。 壱番下堤跡と二番堤
壱番下堤の裏側には豊光院という寺を中心に上高砂の集落が存在します。豊光院は天文18年(1549)に建てられたとされ、『甲斐国志』において三人の連名で豊光院に土地を「作ル」と書かれた記録が残っていたことから、寺の周囲には、少なくとも17世紀に入る頃には、人々が住み始めたことが考えられます。 また、壱番下堤が造られた時期は、洪水層の上から16世紀前半の木が根を下ろしていたことから、壱番下堤は16世紀中頃には築造されていたことが発掘調査の成果で推測できました。 以上から、16世紀前半に上高砂の地に人々が住み始めるのと同時に、壱番下堤は造られたと推察できます。
上高砂や南アルプス市野牛島の周辺には数多くの堤防が露出していたり、地下に埋蔵されています。壱番下堤や二番堤は、それらの堤防群と共に、長年、地域の人々の生活を水害から守ってきたと思われます。 このように歴史的土木構造物の調査は、単に構造物自体を確認するだけでなく、後ろにある寺院や集落などと一緒に考えることで、その構造物が造られた意味や背景を理解することができます。
壱番下堤と二番堤の模式図
図2釜無川沿岸部の堤防の様子 (青い線が堤防遺跡、赤い線が堤防跡の可能性があるもの)
緑丸が壱番下堤跡及び二番堤
出典:『甲斐国志』(下)甲斐国志編纂会1951,pp369
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