トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 0530中世に使われた器~山梨と京都の繋がり~
ページID:105905更新日:2023年2月6日
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南アルプス市の遺跡
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山梨県の中世について現在、大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送中ですが、この時代の山梨県でも武田信玄の先祖である武田信義が活躍し、ドラマでも武田信義は源頼朝と一緒に富士川の戦いで平氏と戦っていました。この戦い以降、平氏打倒へと大きく前進するきっかけとなりました。武田信義が活躍した12世紀頃から戦国時代が終わる16世紀頃までが中世とされています。
山梨県では中世の遺跡として武田氏館跡などがありますが、同じ中世の二本柳遺跡からは水田やお墓が見つかりました。この遺跡は福寿院というお寺と関わりがあると考えられています。福寿院は武田信義の叔父である加賀美遠光が再興したと伝わる法善寺の子院で、武田氏も強く信仰した寺院です。(参照:二本柳遺跡の過去のトピックス:No.17,122,164,276)
所在地:南アルプス市(旧中巨摩郡若草町)加賀美字山宮地 遺跡の時代:戦国時代~江戸時代 報告書:1992『二本柳遺跡』山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第72集 調査機関:山梨県埋蔵文化財センター
二本柳遺跡と法善寺の位置 「かわらけ」とは?二本柳遺跡からは「かわらけ」と呼ばれる土器が出土しています。かわらけは、主に宴会や儀礼で使われた使い捨ての器で、中世の南アルプス市大師東丹保遺跡や甲州市岩崎氏館跡などからも出土しています。かわらけは作り方によって大きく二つに分けられ、ロクロの回転を利用して作られるロクロ成形のものと、粘土をこねて形を作った手づくね成形のものがあります。(参照:稲山遺跡出土のかわらけNo.288) 大師東丹保遺跡出土のかわらけ(手づくね成形) 左:指で押さえた跡があり、デコボコしています。 右:底面に粘土の塊から引き剥がした跡がありません。
手づくね成形のかわらけの実測図 (大師東丹保遺跡)
岩崎氏館跡出土のかわらけ(ロクロ成形) 左:内面は緩やかにカーブしていて、なめらかです。 右:底面に粘土の塊から引き剥がすときに付いた糸切りの痕があります。
ロクロ成形のかわらけの実測図 (二本柳遺跡)
二本柳遺跡の土器は全てロクロ成形によるかわらけです。
二本柳遺跡から出土したかわらけのナデによって付けられた痕 二本柳遺跡のかわらけには、内面をよく観察してみると、中心から外に向かって「の」の字を描くようなナデによって付けられた痕があるものがあります。これは土器の成形の際についた痕跡で、内面から外へと強くナデ上げたため、「の」の字のような跡が残ったと考えられます。このような痕のあるかわらけはどのように出現したのでしょうか? 各地域のかわらけの作り方京都のかわらけには『「の」字状ナデ上げ』と呼ばれ、内側から外側に向けて強くナデ上げる成形方法があります。二本柳遺跡のかわらけは、この影響を受けたものかもしれません。 手づくね成形のかわらけの生産は京都が主流で、他の地域ではロクロ成形でかわらけを作っていました。しかし、13世紀ごろと16世紀ごろになると、この京都で作られた手づくね成形のかわらけが近畿、北陸、山陰、東海地方などに局所的に流通する時期があります。そのときに手づくねの技術を模倣して各地で手づくねの土器が作られます。そして、各地域では自分たちの技術を基本としつつ、京都の技術を取り込むことで、新たな製作技術が現れました。 山梨県のかわらけの技術はどのように影響を受けたのか?山梨県でも、大師東丹保遺跡や武田氏館跡などで手づくね成形のかわらけが出土しています。 そして、ロクロ技術が主体となっている中に京都の技術を取り入れた痕跡が現れたのが、二本柳遺跡で出土したかわらけなのかもしれません。 土器のちょっとした痕跡一つとっても遠く離れた土地との繋がりを見つけることができます。展示を見る時には、いつもと違う視点から見ると面白い発見があるかもしれませんね。
参考文献 中井淳史2005「かわらけ(〈弱い技術〉としての中世土師器生産)」『中世窯業の諸相』 山梨県教育委員会1977『(伝)岩崎館跡発掘調査報告書』山梨県教育委員会 山梨県教育委員会1997『大師東丹保遺跡2.・3.区』山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第132集
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