トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0309米倉山B遺跡
ページID:39365更新日:2017年5月22日
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甲府市の遺跡(甲府城関連・曽根丘陵公園を除く)
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米倉山B遺跡の方形周溝墓と弥生時代後期の住居跡群 (中央に見えるのが1号方形周溝墓)
米倉山B遺跡は、考古博物館・埋蔵文化財センターの南西にある米倉山の南斜面にある遺跡です。この一帯は、旧石器時代から古墳時代にかけての遺跡の宝庫として古くから知られており、早くから発掘調査が行われています。 1991~1996(平成3~8)年にかけて行われた米倉山B遺跡の発掘調査では、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて(今から1,900~1,700年ほど前)の住居跡や古墳時代前期の方形周溝墓、古墳時代後期(今から1,300年ほど前)の円墳、江戸時代の墓などが発掘されています。 所在地:甲府市下向山町 時代:弥生時代・古墳時代・江戸時代 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第163集1999(平成11)年 調査機関:山梨県埋蔵文化財センター 底に孔(あな)のあけられた壺-時代は弥生から古墳へ-この遺跡では、2基の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)が発見されています。「方形周溝墓」は、弥生時代前期に近畿地方で出現した墓制と考えられ、墓のまわりに溝を四角(方形)に掘って区画し、その内部に土を盛って墳丘(ふんきゅう)を造り遺体を埋葬しました。 山梨では弥生時代後期から急増し、古墳時代中期(5世紀後半)まで造られ続けているのが、発掘調査により明らかになっています。群集して造られるのが特徴で、上の平遺跡では125基がまとまって発見されています(遺跡トピックスNo.0211)。 米倉山B遺跡の1号方形周溝墓は、南北19メートル、東西17.8メートルの規模があり、上の平遺跡で最大の1号方形周溝墓(南北30メートル、東西23.5メートル)には及びませんが、県内では中堅クラスに入ります。やはり墳丘の盛土はすでに失われ、埋葬施設は確認されず、墳丘に供えられたり、葬送儀礼(そうそうぎれい)に使われた土器が周溝内から発見されています。 1号方形周溝墓出土の二重口縁壺 二重口縁壺の出土状況 ここで紹介する土器は、周溝の底に近いところから出土しました。胴部(どうぶ)が二つに割れていましたが、接合するとほぼ完形に近い壺になりました。 この壺は、口径17.8センチ、底径6.4センチ、高さ16.8センチの小型の壺で、球形の胴部から頸部(けいぶ)がまっすぐに立ち上がり、口縁部はいったん直角に屈曲し、さらに大きく外側に開いています。その形態から、「二重口縁壺(にじゅうこうえんつぼ)」と呼ばれ、近畿地方から伝わり、各地の古墳や方形周溝墓などで数多く出土しています。もちろん住居跡からも出土します。表面をていねいにヘラで磨き、赤く塗ったものも多く、米倉山B遺跡の壺も磨きや赤く塗った部分がわずかに残っていました。本来は赤く、もっと美しい壺だったとみられます。 孔のあけられた底部
さらに、底部には孔(あな)があけられています。観察すると、土器を焼く前の成形の工程の中で孔があけられているのがわかります。つまり、この壺は日常の容器としての土器ではなく、はじめからお墓で使用することを目的として作られたもので、その意味では古墳の「埴輪」に通じるものがあります。 米倉山B遺跡の1号方形周溝墓は、出土したこの壺のかたちから、古墳時代前期の中頃、4世紀初め頃に造られたと考えられます。甲府盆地では、同じ米倉山に小平沢古墳が出現する頃で、弥生時代の伝統的なお墓が造られている一方で、新しい時代を象徴するお墓が造られはじめます。 まさに時代は弥生から古墳へと移り変わり、甲府盆地も新たな社会に組み込まれていったこと示す土器といえます。 |