トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNO0310中世の吉田宿
ページID:39521更新日:2016年2月25日
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富士吉田市の遺跡
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【図1古吉田宿と上吉田宿】
試掘調査が行われた旧吉田保険事務所跡地の周辺(図1)は、中世(室町時代)の古吉田宿が形成され、「千軒ノ在所」と言わる御師(おし)を中心とした賑やかな町場が形成されていた地域ですが、元亀3年(1572年)に集落・寺をあげて上吉田宿に移転しています。移転に際しては、綿密な町割りと屋敷割りがおこなわれ、寺社が計画的に配置され、新しい宿は道を挟んで短冊状に地割りされ、道より東側の東町には31軒、西側の西町には39軒の合計70軒に御師や神職・商人・職人などが住み、富士山への登拝拠点としての町場が再形成されたとされています。
【写真2雪代(土石流)と大室スコリア】
富士山の雪代に関する記録上の初見は、富士山北麓の出来事を記した『勝山記(妙法寺記)』で、天文14年(1545)2月、同23年(1554)正月、永禄2年(1559)正月の3回の雪代について書かれています。 【試掘調査データ】
【写真2三つ峠から見た富士山】
富士山は、噴火や雪代などによる生命や財産を奪うなど人々の生活に大きな影響を及ぼしますが、広大な山麓と平野、肥沃な土壌、豊富な水資源などの恵みをもたらしてくれます。災害と恵みの表裏一体の関係の中で生活する、富士山麓の暮らしです。 富士山については、近年の発掘調査などにより雪代をはじめ火山災害などの実態が明らかになりつつあります。約1,140年前に起きた貞観地震の再来といわれる東日本大震災の発生により、過去の災害を把握し防災へ活かすことの重要性が改めて指摘されています。 |