トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0187上野原遺跡
ページID:24540更新日:2015年12月14日
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甲府市の遺跡(甲府城関連・曽根丘陵公園を除く)
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▲青線内が発掘調査地点背景は「右左口宿(うばぐちしゅく)」 手前は国道、遺跡の横を通るのは県道 上野原遺跡がある旧中道町には、町名の由来となった古道‘中道往還(なかみちおうかん)’が通っていました。現在、この町を南北に貫くのは、国道358号甲府精進湖線ですが、この道は昭和48年に開通したもので(国道に昇格したのは翌49年)、その昔は、写真で見える遺跡の横を通る県道が、静岡側へ通じる道でした。 この県道は、ほぼ‘中道往還(なかみちおうかん)’と同じルートを走っているといわれます。 上野原遺跡からは、この古道‘中道往還(なかみちおうかん)’が姿をあらわしたのです。 所在地:山梨県甲府市右左口(うばぐち)町 時代:縄文時代中期・中世 調査期間:平成6年5月9日~12月9日 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第122集 ‘中道往還(なかみちおうかん)’とは?▲『甲斐九筋(かいくすじ)』(緑)と中道往還(黄) 古来、甲斐とほかの国をつなぐ主要な道としては、『甲斐九筋(かいくすじ)』がありました。 ‘中道往還(なかみちおうかん)’は、この『甲斐九筋(かいくすじ)』のひとつで、駿河湾と甲府盆地とを最短距離で結ぶ古道です。言ってみれば、静岡側からの玄関口ということになります。こんなことから江戸時代には右左口(うばぐち)は宿場としてにぎわいをみせました。 現れた古道当然のことながら、道はそこを通ることにより、踏み固められていきます。大きな街道などは工事をして路面が固められているものもあります。上野原遺跡からは、その踏み固められた路面が姿をあらわしました。 ▲黒く見えるのが踏み固められた部分 青線内が発掘調査区。黄線内が見つかった道(上の写真) 手前が国道、遺跡の横の道は県道 よーく見てみると、写真の黒い部分(踏み固められた部分)は調査区横を走る県道と同じ様なカーブを描いているのがわかります。 昭和48年に今の国道358号甲府精進湖線が開通するまでは、この県道が、静岡方面へ抜けるための重要な道でした。そのそばには、実は‘昔の道’が眠っていたのです。 今も昔も変わりなく…天正十(1582)年、織田信長も、甲斐武田を滅ぼした後、上野原遺跡にほど近い『右左口(うばぐち)』に宿をとり、この‘中道往還(なかみちおうかん)’を通って安土に凱旋(がいせん)をしています。 ‘発掘調査’で見つかるものとしては、昔の家の跡だとか、お墓の跡などが思い浮かびますが、ここで紹介した上野原遺跡のように、道の跡が見つかることもあります。 昔と今とでは、生活の仕方や、使う道具は大きく変わっていますが、私たちが使っている道が、実は昔から使っている道であったり、今の道と同じ様なルートで‘昔の道’が残っていることを知ると、昔を身近に感じることができます。
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