トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0188鰍沢河岸跡
ページID:24809更新日:2017年3月8日
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富士川町の遺跡
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鰍沢河岸跡は、富士川町(旧鰍沢町)明神町~横町地区にある遺跡で、国道52号の改築工事や護岸工事に伴い、平成8年から19年度まで発掘調査が行われました。鰍沢河岸は、江戸時代初めに開かれた富士川水運の船着き場で、青柳河岸[あおやぎかし](富士川町)・黒沢河岸[くろさわかし](市川三郷町)とともに甲州三河岸と呼ばれました。江戸時代には年貢米や塩の運搬、明治時代以降は様々な生活物資や人々の輸送を行い、昭和3(1928)年の富士身延鉄道(現在のJR身延線)全線開通により舟運の役割を終えるまで、甲府盆地の経済・文化の玄関口としての役割を担いました。発掘調査によって、富士川水運に関わる様々な施設や河岸を中心として発達した町並が発見されました。 〔写真〕鰍沢河岸跡上空から甲府盆地を望む(平成8年度調査時) 河岸には欠かせない荷物置き場平成8年度には、年貢米などを保管した御米蔵[おこめぐら]や検査場などの施設があったとされる御蔵台[おくらだい]周辺の発掘調査が行われ、建物跡や道路跡・杭列などが発見されました。 〔写真〕発掘調査で見つかったカマボコ状の高まり(荷積み台)※白線に囲まれた部分 〔写真〕かつて(明治時代か?)の荷物置き場(鰍沢町教育委員会所蔵の写真) 〔写真〕荷積み台部分の土層断面 この荷物置き場は、江戸時代のものと明治時代のものが見つかっていて、江戸時代の荷積み台の幅が1.2mから1.5mあるのに対して、明治時代では50cmから80cmと狭くなっていることが分かりました。これは、江戸時代には主に米俵を置いていたものが、明治時代になると塩などその他の商品に移り変わっていったことにより、荷積み台の幅が変化していったのだと考えられます。 鰍沢河岸跡の遺跡トピックス鰍沢河岸跡を紹介した過去の遺跡トピックスはこちらです。
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