トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0015町屋口遺跡
ページID:4374更新日:2017年3月8日
ここから本文です。
富士川町の遺跡
|
町屋口遺跡は、富士川町(旧増穂町)にある江戸時代から明治時代の遺跡です。 国道52号(甲西道路)建設にともなう発掘調査が、平成10年度に行われ、江戸から明治にかけての道路跡・水田跡・水路跡などの遺構、また煙管・かんざし・陶磁器類・泥面子(どろめんこ)などの遺物が発見されました。 町屋口遺跡の東側には、江戸時代、富士川舟運の一大拠点であった「青柳河岸(あおやぎのかし)」があります。 所在地:富士川町(旧増穂町)青柳 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第177集2000年(平成12年)刊行 調査機関:山梨県教育委員会・山梨県埋蔵文化財センター 調査風景 遺跡全景 水路と水田 出土した遺構・遺物「作場通ひ道(さくばかよいみち)」と水路 写真を見ると、2列の太い杭が並んでいますが、その手前には握り拳大の石が帯状に転がっています。この石の帯は江戸時代の農道の一部であり、幕末頃の絵図に描かれている「作場通ひ道(さくばかよいみち)」と考えられています。
石は道を補強するために、設置されたと考えられます。 杭と杭の間の舟板材 太い杭と杭の間は、富士川舟運で使われたであろう舟板を土留め用の板として仕切られた水路の護岸となっています。
この水路の下の層からは、細い杭を打ち込んだ「乱杭」と呼ばれる初期の水路が発見されました。これらの遺構からは、江戸時代の水路構築技術の変遷を読みとることができます。 青柳河岸(あおやぎのかし)安政年間(江戸末期)の青柳河岸周辺図(※小河内照一郎氏所有絵図を元に作成) 河岸(かし)とは、一般的に貨物・旅客のあげおろしの施設のことをいいます。
江戸時代の富士川町(旧増穂町)青柳には、鰍沢河岸・黒沢河岸とともに、富士川舟運の一大拠点として繁栄した、青柳河岸がありました。富士川を往来した舟は、行きは江戸へ送る年貢米を乗せて川を下り、帰りは塩などの商品を運搬しました。
舟運で栄えた青柳河岸は、現在の富士川大橋の南側にありました。上の図は幕末の青柳村の絵図から作成したものですが、発掘で明らかになった「作場通ひ道(さくばかよひみち)」は、矢印の位置にあたります。また、平成10年度の発掘調査では、青柳河岸御蔵台へと続く道路「河岸お蔵道(かしおくらみち)」も発見されました。
絵図に描かれていた青柳河岸は、度重なる富士川の氾濫によって、現在は地下深くに眠っています。
その埋もれてしまった姿の一部が、発掘調査によって、だんだんと明らかになってきました。 |