トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0242鰍沢河岸跡
ページID:32061更新日:2017年3月8日
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富士川町の遺跡
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御米蔵跡(南西より)御米蔵跡(北西より)
年貢米の保管鰍沢河岸跡は国道52号の改良工事や護岸工事に伴い平成8年~19年まで発掘調査が行われました。河岸跡からは、年貢米を保管する御米蔵(おこめくら)や、建物跡・道路跡などが発見されました。さかのぼること江戸時代のはじめ、『富士川舟運』(ふじかわしゅううん)は慶長12年(1607)頃に幕府の命令で工事が始まったとされています。舟運の目的のひとつは、年貢米を甲州(山梨)から江戸(東京)まで運こぶことにありました。「鰍沢河岸」(かじかざわかし)は、青柳・黒沢とともに三河岸のひとつとしてさかえ、河岸に集められた年貢米は「御蔵台」(おくらだい)と呼ばれる施設に集められました。御蔵台の内容について、延亨3年(1746)の鰍沢村明細帳写(山梨県教育委員会1996)には、柵で囲まれた「御蔵屋敷」(おくらやしき)の中に「江戸御廻米御蔵」(えどごかいまいおくら)などの施設があったことがわかります。ここでいう御蔵屋敷が「御蔵台」にあたると考えられ、その規模は40間×30間[約72m×約54m]の敷地内に20間×4間[約36m×約7.2m]の御米蔵があったとされています。 御蔵台の施設 河岸から舟で下り、4~8時間かけて岩淵(いわぶち・静岡県富士市)まで年貢米を運ぶ富士川の流れは速く、難所が続いたそうです。大雨が降ると水位があがり、川幅のせまい場所では水があふれ、鰍沢河岸の周辺は水に浸かりました。御蔵台も水害の度に移動や修理をくり返したとされる資料がありますが、部分的なものが多いようです。鰍沢河岸には岩淵からの帰り舟に積まれた「塩」が荷揚げされました。塩のとれない長野のある地域ではむかし塩が鰍沢から運ばれてくることから、貴重な塩を「かじかざわ」といわれたそうです。『鰍沢河岸』は舟運を支えた拠点として、以後300年以上の長きにわたり甲斐国の運輸・経済に大きな役割を果たしました。
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