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ページID:48926更新日:2017年6月9日
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富士川町の遺跡
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遺跡概要町屋口遺跡は、山梨県南巨摩郡富士川町青柳に所在する遺跡です。標高は甲府盆地で最も低い242mで、遺跡の300m東には富士川が流れています。中部横断自動車道建設に伴い平成22年6月から同年9月にかけて発掘調査されました。(町屋口遺跡は、平成10年度にも一般国道52号の改築工事に伴って発掘調査が行われていますが、今回は平成22年度の調査について紹介します) 標高が低く、富士川に近接しているという立地から、遺跡の周辺は度々富士川の氾濫の影響を受け、発見された遺構や遺物は砂に埋まっていました。 発見された主な遺物として、江戸時代後半から明治時代にかけての陶磁器片や、寛永通宝(かんえいつうほう)、櫛、下駄などが見つかっています。 河岸お蔵道について写真の丸い枠で囲った箇所がその他の場所に比べて砂利が目立つのがわかるでしょうか? この箇所は他の場所に比べて非常に固くしまっていました。調査の結果、人為的に砂利と粘土を突き固めてあることがわかりました。 実はこれは明治期まで使用された道の跡で、「河岸お蔵道」(かしおくらみち)と呼ばれるものです。 道の両脇には等間隔で木の杭が並んでいます。おそらく道を保護するための施設であろうと考えられています。 発見された道は調査区をほぼ東西に横切り、調査区の外側へと続いています。どこへ向かうのでしょう? かつて山梨県には大きな河岸が三箇所あり、甲州三河岸と呼ばれていました。この道を西へ進むと青柳の町へ、東へ進むと三河岸の一つ青柳河岸へと続いていました。 富士川舟運について江戸時代、徳川家康の命を受けた角倉了以(すみのくらりょうい)によって5年の歳月をかけて富士川の整備が行われ、舟運が開始される契機となりました。富士川開削の目的は、幕府直轄地の年貢米を江戸まで輸送する手段として、陸路よりも早く低コストで輸送できる舟運を利用するためでした。 甲州三河岸と呼ばれた青柳河岸、鰍沢河岸、黒沢河岸は江戸蔵前まで年貢米を輸送するための中継地点で、これらの河岸に各地から年貢米が集められ、富士川を下り、静岡を経由して最終的に江戸まで運ばれました。このことを示す史料として、青柳河岸に建っていた年貢米を貯蔵するための米蔵が富士川町の「あおやぎ宿追分館」に移築され現在も残っていますし、鰍沢河岸跡からは米蔵跡が見つかっています。 また舟運は年貢米の輸送だけでなく、帰り舟は塩などの海産物や身延山への参詣客などの輸送手段としても利用されました。
上の図は、幕末から明治の初期頃に描かれたとされる『甲斐国巨摩郡青柳村絵図』を見やすくした図で、町屋口遺跡の周辺が描かれています。図の中の円で囲った箇所が町屋口遺跡とお蔵道で、図の下側が富士川と、青柳河岸になります。また、図の上側(遺跡の北西)には、駿河と信州を結ぶ「駿信往還」の宿場町として栄えた当時の青柳村が描かれています。 関連する過去の遺跡トピックスはこちら
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