トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0092(鰍沢河岸跡)
ページID:4430更新日:2016年2月8日
ここから本文です。
富士川町の遺跡
|
ガラス製目薬瓶鰍沢河岸跡は、甲府盆地を代表する二大河川である笛吹川と釜無川の合流点からやや下流に位置する、江戸時代はじめに開かれた富士川水運の船着場を中心とする近世・近代の遺跡です。 鰍沢河岸跡についての詳細は、過去の遺跡の遺跡トピックスをご覧ください。
有名ブランド名がついたガラスの目薬瓶!!〔写真〕ガラス製目薬瓶 〔写真〕左:目薬瓶拡大右:ガラス瓶実測図
上の写真の遠くの海のような深い青色をしたガラス製の目薬瓶は、鰍沢河岸跡で出土しました。素材革命がこの目薬瓶からみることができます。では、目薬瓶の素材革命を追ってみましょう。現在、液体目薬といえば、プラスチック製の瓶ですよね?しかし、その前はガラス製の瓶でした。
上のガラス製の目薬瓶は、今でも有名な会社で作られたものです。 素材革命を追う!〔写真〕左:凹み(くぼみ)をもつガラス製目薬瓶右:目薬瓶実測図
まず、瓶の形態は、円柱あるいは角柱状の小瓶が最も古く、次に瓶の側面に縦長の凹みをもつものが出できました。側面の縦の凹み(くぼみ)は、紙箱に目薬瓶が収まった時、点眼の時に使う壊れやすいガラス製のスポイトを保護するためにつけられたと思われます。
上のガラス瓶では、ロート目薬という文字がみえます。ロート目薬(ロート製薬)はミュンヘン大学のロートムンド博士の名をもらった由緒ある目薬で、1909年(明治42年)に製造が始まりました。
側面には小児用の文字があります。この頃からすでに子供用の目薬があったことがわかります。 〔写真〕左:両口式ガラス製目薬瓶右:目薬瓶実測図
現在のように目薬瓶から直接点眼できるようになったのは、1931年(昭和6年)の両口式瓶の登場によります。上の口にはゴム製の半球が取り付けられ、これを押すことで一滴づつ薬剤を垂らしました。目薬瓶とスポイトが一体化したものです。柔軟で気密性を備えたゴム素材の登場で両者の一体化が可能になりました。そして、この両口式瓶は、1962年頃(昭和37年頃)のプラスチック瓶の登場で消えていきました。プラスチックなどの合成樹脂は柔軟性があり、瓶全体を凹ませる(くぼませる)ことができるようになったため、ゴム球は不要となったのです。 ガラス瓶がもたらした変化〔写真〕ガラス製目薬瓶
ガラスの歴史は古く、すでに弥生時代から玉類などの装飾品として使われてきました。明治時代以降には容器として大量に製造されるようになり、素材革命をもたらしたのです。小型で気密性の高さに加えて、変質や溶出物質もないガラス瓶の登場は画期的でした。
薬品・化粧品・飲料など製造元で瓶詰めして遠距離の消費者へ届けられるようになり、開封して使うだけという現代の便利な生活をもたらす大きな一歩となったのです。
実はガラス瓶が登場する前は、目薬は軟膏剤でハマグリの殻に詰められていたのです! |