トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0030鰍沢河岸跡(口留番所跡)
ページID:4564更新日:2017年5月19日
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富士川町の遺跡
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富士川舟運の川港である鰍沢河岸跡は、江戸時代から明治・大正時代の遺跡です。 鰍沢河岸跡の最南端に位置する口留番所は、江戸幕府が設置した小規模な関所で、交通の要所に設置され、人や物資の出入りを監視する施設です。 国土交通省による甲西道路建設に先立って平成17年3月から6月にかけて発掘調査を行いました。 今回の調査では、石垣や礎石建物跡が確認されました。
所在地富士川町(旧鰍沢町)明神白子地区 時代江戸時代~明治・大正時代 調査機関山梨県埋蔵文化財センター 遺跡全景 作業風景 出土した遺構石垣〔写真〕川岸に築かれた石垣 石垣は、高さ3m、長さ20mほどあり、口留番所の広場や建物跡がある平らな面が崩れないように、富士川に面する斜面に構築されていました。 建物跡〔写真〕礎石建物跡 礎石建物跡は、東西に2間×南北に4間(約4m×約8m)の規模です。
建物跡の周りを掘り下げていくと、文久永宝(1863年~)や子供の遊び道具である泥メンコ、陶磁器片などが出土しました。
出土した遺物から、口留番所が廃止になってから建てられたものと思われます。
さらに掘り下げると、口留番所の造成層が確認できました。
この層からは遺物の出土がなく、口留番所の性格上、生活廃棄物を捨てなかったからだと考えられます。
今回は、口留番所広場東縁をかろうじて調査できましたが、口留番所本体は現在の国道52号線の下に埋れていると推定されます。 |