トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0068鰍沢河岸跡
ページID:4318更新日:2017年6月22日
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富士川町の遺跡
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鰍沢河岸跡とその風景鰍沢河岸跡文政の大火鰍沢河岸跡は江戸時代に開かれた川の港です。詳しくはNo.005、No.0025、No.0027、No.0030、No.0035、No.0047、No.0048 鰍沢河岸跡の家並みの様子と絵図に記された家並み。よく似ています。
これまでに、このあたり一帯を描いた絵図が知られていましたが、発掘調査によってそれとほぼ同じ町並みが姿をあらわしました。また、それに加えて文政4年(1821)、このあたりで大火事があったことが古い記録にみられますが、それを裏付けるように多くの焼けた家の跡が見つかりました。ここではその様子を紹介します。
所在地山梨県富士川町(旧鰍沢町)1374-5外(白子明神地区) 時代近世・近代 調査機関山梨県教育委員会・山梨県埋蔵文化財センター 報告書山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第148集1998(平成10)年刊行 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第224集2005(平成17)年刊行 山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第238集2006(平成18)年刊行 真冬の大火事「文政4年(1821)正月16日、六左右衛門の薪小屋から出火した。折からの北西の強風にあおられて火は勢いを増し、あたり77軒の民家と各地から集められた年貢米を納めた御米蔵が火の海にのまれた。」これが大火事を伝える記録のあらましです。 では実際の現場の様子を見ていきましょう。 上の写真は絵図でいうと、甚五左右衛門の敷地です(全体写真では黄色の区画)。等間隔に礎石が並んでいますが、この石の上に柱が立てられ家となっていました。この敷地内からはこの家に使われていた柱が焼けて炭となったものが特に多く見つかっています。中にはほぞ穴(柱と柱を組み合わせるための穴)などが残っている材もありました。その他にも焼けた壁や、壁を補強するための組んだ竹、日本手ぬぐいのような布地が炭となったものなどが見つかっています。 上の写真は絵図でいうと、源兵衛の敷地です(全体写真では赤色の区画)。礎石も見あたらず、うつわの破片などもあまり見つからなかった敷地ですが、火事によって床が赤く焼けている様子がわかります。 上の写真は絵図でいうと、儀右衛門の敷地です(全体写真では青色の区画)。他に比べると狭い敷地ですが、この家の作りは少し変わっています。部分的に床面に粘土が貼られていたのか、パリパリに焼けた粘土が見つかっています。また平たい石を敷いている部分も見られます。風変わりな家ですが、他の家と同様に火事で焼けている様子がよくわかります。 180年目の現場検証3軒の家を紹介しましたが、いずれも火事で焼け落ちた様子をよく伝えています。この大火事の様子は記録に残されていたので、その事実はわかっていましたが、発掘調査を行なったことによって当時の火事の様子がリアルにわかってきました。土を掘り下げていくうちに、真っ赤に焼けた土、焼けたうつわの残骸が姿をあらわし、さらにそういう場所がどんどん広がっていくにつれ、やはりひどい火事だったんだなぁということが感じられました。
この大火事は鰍沢河岸の存続にも関わる騒ぎとなりました。大切な年貢米が焼けてしまったからです。これをいましめとして、これ以降は御米蔵のまわりには民家をつくらず、空き地として延焼を防いだということです。 私たちもこれからの季節、火事には気をつけたいものです。 |