トップ > 組織案内 > 観光文化・スポーツ部 > 山梨県埋蔵文化財センター > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックス一覧 > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0291町屋口遺跡
ページID:37692更新日:2017年5月24日
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富士川町の遺跡
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町屋口遺跡は、2010年に中部横断自動車道建設に伴い発掘調査が行われ、江戸から明治時代にかけての陶磁器のかけらがたくさん見つかりました。 遺跡名:町屋口遺跡 所在地:山梨県南巨摩郡富士川町字青柳 時代:江戸時代~明治時代 調査機関:山梨県埋蔵文化財センター この茶碗は町屋口遺跡から出土したもので、明治時代に印判(いんばん)という手法で文様がつけられました。 印判とは?広い意味では、模様のある陶磁器のうち手描きのもの以外はすべて印判と呼ぶことができます。しかし「印判」と聞いたときに多くの人がイメージするものは、明治時代に大量生産された明治印判と呼ばれるものです。上の写真の茶碗も明治印判の一つです。 印判の製法明治時代に生産された印判には、大きく分けて2種類の製法がありました。一つは型紙刷り(かたがみずり)と、もう一つは銅板転写(どうばんてんしゃ)のものです。
なんとなく銅板刷りのほうが手間がかかり難しそうに聞こえますが、時代が下るにつれて型紙刷りよりも銅板刷りのほうが主流になっていきます。それは、型紙に比べ、銅板のほうが丈夫で繰り返し使えたため大量生産する際に便利だったことや、細かく繊細な図を描くことが可能だったためと考えられます。 型紙刷りの印判(模様がずれてつぶれている箇所がある) 印判の色ところで、この鮮やかな青い色は明治時代の印判に特有の酸化コバルトの色なのですが、当時の人びとにはこの色に対して抵抗感もあったようです。 江戸時代の陶磁器は、天然の呉須(ごす)という染料が使われており、もっと暗くて落ち着きのある青色でした。それに対し、明治になって新たに西洋から導入されたこの酸化コバルトの鮮やかな青は、当時の人びとの目には品の無い色として映ったようです。 しかし、呉須に比べて安価で手に入り易いこのコバルト染料は、大量生産向きで銅板刷りの技術と共に普及していき、それまでは高価なものであった陶磁器を一般の人々が気楽に使える日常品へと変えていったのでした。 酸化コバルトを使ったもの 呉須を使ったもの |