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ページID:4375更新日:2017年6月6日

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遺跡トピックスNo.0114青柳河岸跡

富士川町の遺跡

  • 0005鰍沢河岸跡-泥めんこ-
  • 0025鰍沢河岸跡-礎石建物跡・井戸-
  • 0027鰍沢河岸跡-石垣・粘土枠遺構-
  • 0030鰍沢河岸跡-口留番所跡-
  • 0035鰍沢河岸跡-道・区画-
  • 0047鰍沢河岸跡-胞衣壺-
  • 0048鰍沢河岸跡-磁器・泥めんこ-
  • 0068鰍沢河岸跡-文政の大火-
  • 0092鰍沢河岸跡-目薬瓶-
  • 0113鰍沢河岸跡-元禄一分判金-
  • 0117鰍沢河岸跡-文政の大火と磁器-
  • 0188鰍沢河岸跡-荷物置き場-
  • 0203鰍沢河岸跡-竹製の水道管-
  • 0208鰍沢河岸跡-陶器製湯たんぽ-
  • 0242鰍沢河岸跡-御蔵台-
  • 0270鰍沢河岸跡-うさぎ文様の茶碗-
  • 0351鰍沢河岸跡-お茶碗にみるものがたり-
  • 0359鰍沢河岸跡-統制番号製品-
  • 0015町屋口遺跡-水路・道路-
  • 0291町屋口遺跡-明治時代の磁器-
  • 0360町屋口遺跡-河岸お蔵道-
  • 0114青柳河岸跡-石垣-
  • 0158平野遺跡-焼失住居跡-
  • 0375鰍沢河岸跡-泥めんこ-

青柳河岸は、鰍沢河岸と黒沢河岸とともに甲州三河岸の一つであり、富士川開削後の水運の拠点となったところです。寛永十五年(1638)には御廻米蔵が置かれ、市川代官支配下村の江戸廻米が扱われ、経済文化交流の大きな役割を果たしました。

明治期には、鰍沢河岸とともに富士川運輸会社となり、明治十五年(1882)に青柳運輸会社として独立していますが、鉄道開通などにより明治三十六年(1903)に会社解散になっています。

今回の調査では、試掘調査で既に確認されていた土堤状の高まりの位置と、土堤状の斜面に多量の陶磁器類を確認するとともに、調査区内の北側で新たに東西方向へ延びる石垣が確認されました。

  • 調査地点富士川町(旧増穂町)青柳地内
  • 時代江戸時代末~昭和初期
  • 調査期間平成19年6月4日~9月27日
  • 調査機関山梨県教育委員会・山梨県埋蔵文化財センター

調査区全景(南より撮影)と富士川大橋DSCF0366-2

調査区全景(南より撮影)と富士川大橋

 

石垣

調査区の北側で発見された東西方向へ延びる石垣ですが、石を確認した時点では畑の地境の石と思われましたが、4本の試掘溝を石列に直交する方向に設定し掘り下げたところ、北側に面をもつ石垣であったことが明らかとなりました。この石垣の性格については、江戸時代末から明治時代の初期頃に描かれた絵図や明治21年の陸地測量部の地図からでは、確認することはできませんでした。構築時期については、今後の整理作業において出土遺物から判断していきたいと思います。

石垣の調査風景(西より撮影)

石垣の調査風景

石垣の状況(北西より撮影)

石垣の状況(北西より撮影)

出土遺物

土堤状の高まりについては、青柳河岸本体に続く東西方向へ延びる道の上に存在し、砂を盛って構築されていました。この砂を盛った中には、陶磁器片や自転車のペダルなどが見つかりました。また土堤の斜面からの多量の出土物の中には、電線に巻きつけた碍子(がいし)や薬ビン、ワインビン、瓦片などが発見されています。

富士川町(旧増穂町、旧鰍沢町)に電気が灯るのは明治40年であり、また出兵の際の「」も見つかっているので、斜面からの出土物は、昭和16年以降に投げ込まれた陶磁器類、瓦片、薬ビンと考えられます。磁器片については、明治時代のものも含まれていました。

土堤北斜面より出土した徳利

土堤北斜面より出土した徳利

土堤南斜面より出土した遺物群

土堤南斜面より出土した遺物群

 

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