トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 埋蔵文化財センター_遺跡トピックスNo.0114青柳河岸跡
ページID:4375更新日:2017年6月6日
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富士川町の遺跡
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青柳河岸は、鰍沢河岸と黒沢河岸とともに甲州三河岸の一つであり、富士川開削後の水運の拠点となったところです。寛永十五年(1638)には御廻米蔵が置かれ、市川代官支配下村の江戸廻米が扱われ、経済文化交流の大きな役割を果たしました。 明治期には、鰍沢河岸とともに富士川運輸会社となり、明治十五年(1882)に青柳運輸会社として独立していますが、鉄道開通などにより明治三十六年(1903)に会社解散になっています。 今回の調査では、試掘調査で既に確認されていた土堤状の高まりの位置と、土堤状の斜面に多量の陶磁器類を確認するとともに、調査区内の北側で新たに東西方向へ延びる石垣が確認されました。
調査区全景(南より撮影)と富士川大橋
石垣調査区の北側で発見された東西方向へ延びる石垣ですが、石を確認した時点では畑の地境の石と思われましたが、4本の試掘溝を石列に直交する方向に設定し掘り下げたところ、北側に面をもつ石垣であったことが明らかとなりました。この石垣の性格については、江戸時代末から明治時代の初期頃に描かれた絵図や明治21年の陸地測量部の地図からでは、確認することはできませんでした。構築時期については、今後の整理作業において出土遺物から判断していきたいと思います。 石垣の調査風景 石垣の状況(北西より撮影) 出土遺物土堤状の高まりについては、青柳河岸本体に続く東西方向へ延びる道の上に存在し、砂を盛って構築されていました。この砂を盛った中には、陶磁器片や自転車のペダルなどが見つかりました。また土堤の斜面からの多量の出土物の中には、電線に巻きつけた碍子(がいし)や薬ビン、ワインビン、瓦片などが発見されています。 富士川町(旧増穂町、旧鰍沢町)に電気が灯るのは明治40年であり、また出兵の際の「杯」も見つかっているので、斜面からの出土物は、昭和16年以降に投げ込まれた陶磁器類、瓦片、薬ビンと考えられます。磁器片については、明治時代のものも含まれていました。 土堤北斜面より出土した徳利 土堤南斜面より出土した遺物群 |