トップ > 組織案内 > 県教育委員会の組織(課室等) > 遺跡トピックスNo.0268日本最古級のウマ-塩部遺跡(しおべいせき)〔甲府市〕
ページID:34608更新日:2016年2月25日
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甲府市の遺跡(甲府城関連・曽根丘陵公園を除く)
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672年に起きた壬申の乱では「甲斐の勇者(かいのゆうしゃ)」という騎兵が登場したり、720年頃に書かれた『日本書紀』には「甲斐の黒駒(かいのくろこま)」として朝廷に良馬を献上していたと記載されているなど、古代から名馬の産地として知られていた山梨県。 さらに武田信玄が率いて戦国時代最強と恐れられた「武田騎馬隊(たけだきばたい)」と、山梨県とウマの関係って古くて深いものだったんですね! 今週のトピックスは、そんな山梨県とウマのルーツについて少し触れてみたいと思います。 遺跡トピックスNo.0268日本最古級のウマ文献資料によると3世紀末に書かれた『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』(280~290年頃)には、3世紀末の日本にはウマ、ウシ、ヒツジなどはいないと記録されています。この記録が正しければ3世紀末以前にはウマはいなかったことになり、現在ではウマは大陸から北九州地域へ持ち込まれたとする説が有力です。 考古学的資料としては4世紀になると馬具(ウマにつけた飾り具)などが見つかり、古墳時代になるとウマは軍事力と権力を示すものとして、権力者が所有するようになったと考えられています。 山梨県では『日本書紀』の記載(文字史料)だけではなく、実際の存在する考古遺物として「日本最古級(古墳時代前期後半・4世紀後半・古墳時代前期第3四半世紀)のウマ」が甲府市塩部遺跡の方形周溝墓(溝を四角形に掘り、その内側に土を盛って作られたお墓)から出土しています。 ちなみに日本の土は“酸性土壌(さんせいどじょう)”であり、古い時代の有機物(骨や木材など)が残りにくい特徴があります。では、なぜそんな悪条件下でも塩部遺跡のウマは現代まで残ったのでしょうか? 答えは、水分を多く含んだ湿地だったからと考えられています。 湿地や井戸跡など遺物の周りを水が密閉する状態だと土に分解されにくいのです。下の出土状況写真を見ると、土が湿っているのがわかります。 さらに歯の表面はエナメル質でできていて人間でも動物でも体内で一番かたい部分であり、骨よりも歯の方が残る確率が高くなるのです。 これらの偶然が重なった結果、現代にまで消失することなく残ったのです! 〈写真左:ウマの上顎歯合計12本〉〈写真右:4世紀後半の遺物とウマの下顎歯合計10本〉 分析の結果から体高(脚の先から肩までの高さ)が約125cmと、当時としては大きなウマであることが推定され、歯の摩耗が少ないので若くて大きな良馬が埋葬されたことが判明しました。 このウマの歯は上のあごの歯と下のあごの歯に分かれていますが同一個体であり、噛み合った状態から土に埋まっていく過程で離れた可能性が高いことがわかりました。そして1本だけの遊離歯(離れた状態の歯)だと後世の混ざり込みの可能性がありますが、塩部遺跡のように上顎歯12本(左右の第2前臼歯~第3後臼歯)と下顎歯10本(左右の第3前臼歯~第3後臼歯)とまとまった状態で出土しているので、後世の混ざり込みの可能性が極めて低いことが、塩部遺跡のウマが年代が正確な「日本最古級のウマ」の出土例とされる最大の根拠になりました。 遺跡名:塩部(しおべ)遺跡 所在地:山梨県甲府市塩部 時代:弥生時代後期~古墳時代前期、奈良・平安時代 調査機関:山梨県埋蔵文化財センター 報告書:山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第123集塩部遺跡1996年発行 塩部遺跡に関するトピックス→No.0021
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